文章公開ページ

文×画<椅子のある部屋>(https://hakolien.hakofo.com/bunga01/)に参加される文章作家様の作品一覧です。

※初めにお読みください『幻影心中』佐倉愛斗『エッタの椅子』七日『ανάμνησις』おもちりん『その椅子に座る者』ぴえ『またきてしかく』星 宗介『カシオペア』千梨『gentian』コルカロリ『存在』白川湊太郎『椅子取りゲーム』いとうのぶき『独夜が明けるまで』澄夜 明『五年目の椅子』彼方『未来をツクル』玖音 楽『瑠璃色とアマツツミの椅子』相良 つつじ『冗長』Daigon
このページは文章参加作品公開ページとなります。
作品は第二期募集終了まで一般公開され、絵作家の参加者がコラボを希望する作品を選ぶ形となります。
納品された文章作品は、随時更新してまいりますので是非チェックしてみてください。

※絵作家の募集は【07月23日】から開始します。募集前の希望作品の申し出は受付できません。
※希望作品は先着順で受付いたします。
※参加には「お約束」を必ずお読みください。

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『幻影心中』 作:佐倉愛斗

私は椅子に座っていた。
椅子のすぐ隣には紺色のカバーがかけられたシングルベッド。目を覚ましたマサシさんは身体を起こして小さく伸びをした後、小さな木椅子に座る私に「おはよう、ミカ」と微笑みかけた。
「おはよう、マサシさん。今日はいい天気よ」
マサシさんがカーテンを開けると薄暗かったワンルームに南向きの窓から光が部屋いっぱいに広がる。舞った埃がちらちら結晶みたいに輝いて二人を祝福するような朝だった。
「マサシさん、早くご飯食べないと会社遅刻するわよ」
急かすように、椅子の上の私は言う。マサシさんは心底嬉しそうに冷蔵庫から昨晩炊いた白米と納豆と数日前に作り置きしていたひじきの煮物を出して食べ始める。猫背気味に食べるマサシさんの背中が私にはどうも愛しく思えて仕方がなかった。
「行ってきます、ミカ」
「はい、いってらっしゃい」
部屋の角に置かれた椅子から、玄関を出るマサシさんを見送った。

カーテンが開け放たれた窓からは、そこから繋がるベランダの先に大きな柳が見える。風が吹くと枝がしなり葉が擦れる音までもここまで聞こえるようだった。その先にはこのワンルームがあるのと同じ四階建ての集合住宅がある。アルコープに等間隔に玄関が並ぶ、古臭い高度成長期に建てられた鉄筋コンクリートの大きな塊だ。開けられない窓から眺めるこの景色は、私をほんの少しだけ寂しくさせた。

「ただいま、ミカ」
今日は少し不機嫌そうだった。
「なあ、聞いてくれよ」
冷蔵庫から出した缶ビールを一口飲むと、床に胡坐をかいて椅子の上の私に話し始める。
「今日、同僚の女、なんだっけ、確かタナカとかいうのが俺に『キクチさんって最近素敵になりましたよね。元々、素敵だなとは思っていたのですがさらにというか……よかったら今度食事でも行きませんか?』とか言ったんだ。さも前から好きでした、みたいな顔をしてさ。ミカと会う前の俺のことを陰で嗤ってたことを俺は知っているんだ。わざとらしいくらいにシャンプー匂いをさせてホント気持ち悪いったらないよ」
マサシさんはもう一口ビールをあおる。
「そう、マサシさん災難だったわね」
「それで誘いを断ったら同期のヒロムに勿体ないだのなんだの言われてさ。あんな女のどこがいいんだ。俺にはミカがいるのに」
「そうよ、マサシさんには私がいる」
「でもやけ酒していないでちゃんとお風呂入りなさい」と言うと、マサシさんは「ミカがいないと俺はダメなんだ」と笑った。

その次の日、マサシさんはラブレターを渡す前の学生のような顔をして帰ってきた。もぞもぞとして落ち着きがない。頬を赤らめて目線を右に左にと私を見ようとして見られないといった具合に。
「ミカ、今日は君にプレゼントがあるんだ」
そう差し出した小さな紙袋の中には、高級ブランドの小さなネックレスが入っていた。細いピンクゴールドチェーンの先には小さな石が光っている。
「昼休みに店の前を通りかかって、ミカに似合うだろうって思わず買ってしまったんだ。気に入ってくれたかな」
「素敵ね。嬉しいわ。でも高くなかったの?」
マサシさんは私が座る椅子の背もたれにそのネックレスをかけた。
「いいんだ。ミカに絶対似合うと思ったから。とてもよく似合っているよ。ミカの華奢な首にぴったりだ」
慈しむように見つめ合った私たちは、瞼が重くなるように瞳を閉じて額を寄せ合った。
「ミカ、愛してる」
「ええ、私もよ」
私に触れようと手を伸ばして、マサシさんは一刹那悲しそうな、寂しそうな顔で手を下ろす。現実というものはマサシさんにとって脅威であるのだと私は知っていた。
次の日は花束を、その次の日は仕立ての良い青いワンピースをマサシさんは私にくれた。その度に私たちは幸せを分け合って、そしてマサシさんは悲しい顔をした。

「おはよう、ミカ」
その日は冬の香りがする冷たい雨が降る朝だった。
「なあ、ミカ。どうして俺はミカに会えないんだ?」
私は何も答えない。
「俺はミカを愛している。だけど、触れられたいし、結婚もできない。なんで、ミカに会えない?」
私は、何も言えなくなっていた。否、マサシさんが何も言わせてくれないのだ。
「返事してくれよ」
「いるよ、私は」
「ああ、いるよな」
「うん、この椅子の上に私はいるわ」
「そう、何があっても」
ネックレスとワンピースが置かれた椅子の上にマサシさんは崩れるように泣いた。

私が生まれたのは、本当に些細な思い付きだった。
当時のマサシさんは陰気で、身なりも不潔で、仕事も新卒で入ったもののうまくいかない人だった。不摂生が続き、小さなワンルームにはゴミが散乱し、休みの日は家から一歩も出ずにベッドから柳が揺れる音を聞いていた。
だからかどうかは分からないが、これまでの人生で女性に好かれることもなく、むしろ自分のことを陰で悪く言う女性たちに嫌気がさしているほどだった。一生女性を愛することなく終えるのかもしれないとすら思っていた。しかし、マサシさんは寂しかった。心が拒絶していても、元来からの女性への欲はあった。だから話しかけたのだ、部屋の隅に置かれた椅子に。
最初は馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。しかしどこかの国の捕虜がそんなことをして心の安寧を図ったとどこかで聞いたこともあったこともあって、試してみようとマサシさんは思ったのだった。
「おはよう」
初めてかけられた言葉はこれだった。マサシさんの頭の中で、私も「おはよう」と答えた。マサシさんは自分が何をしているのか分からないといった具合に苦笑してベッドに身を投げて出勤時刻ギリギリまでぼんやりと私のことを想っていた。
マサシさんが私への挨拶を続けるうちに、少しずつ自分のことを話すようになっていた。
「ミカ、俺は女が嫌いだ。臭くて、うるさくて、悪口が餌なんだ」
「そうね」
「でもミカは違うだろ?」
「ええ、私はマサシさんの悪口は言わないわ」
「俺のこと好きか?」
「大好きよ」
ふふ、と自嘲的な笑いをそのときマサシさんはした。
その次にマサシさんが始めたのは、私に見合う男になることを目指すことだった。
「ミカ、今日はゴミ出しをしたよ」
「すごいわね。次は掃除機をかけましょう?」
「ああ、頑張るよ」
「マサシさんは偉いわね」
それから毎日の髭剃り、自炊、掃除を始め、乱雑としていたワンルームの床が見えるほど綺麗に片付いた。全ては私のため。私に褒められたくて、私によく見られたくて、マサシさんは頑張った。濁っていた瞳は生気が戻り、マサシさんの生活はハリのあるものになった。
しかしマサシさんは気付いてしまった、姿の無い私を愛し始めてしまったことに。

「なあ、ミカ。愛しているよ」
愛していると返事しても、それはマサシさんが作った私の感情。マサシさんが欲しい答えを言っているだけ。
「なあ、ミカ、ミカはそこにいるよな」
「ええ、ここにいるわ」
「愛してるよ」
「私もよ」
そうやってマサシさんは私の椅子に縋り付いて、一緒に揺れる柳の枝がしなる音を聞いた。

それから何日も、マサシさんは私に話しかけ続けた。
「ミカは何が好き?」
「チョコレートが好きよ」
「ミカの幼いころは?」
「あまり多くはないけれど素敵な友達がいたわ」
「俺の好きなところは?」
「私のことを大切にしてくれるところ」
「ああ、大切に思っているよ」
「嬉しいわ。そのままのマサシさんが好きよ」
「俺もミカのことを愛している」
「世界に二人きりになれたらいいのに」
「ここでは二人きりだ」
「誰もいない私たちだけの世界」
マサシさんの顔は無精ひげで青くなり、髪も乱れ、腐った卵のような臭いが部屋中に充満していた。カーテンも閉め切られて柳は見えない。昼も夜も分からない日々がどのくらい経過したのか、無限の時を過ごしたかのように私たちは感じた。

誰もいない私たちだけの世界を壊したのは、けたたましいドアベルの音だった。
最初は無視していたのだが、何度も何度も鳴らされることが煩わしくて、マサシさんは乱れたスウェット姿のまま玄関ドアを開ける。
そこにいたのはオフィススタイルのタナカさんとスーツのヒロムさんだった。ドアを開けてやっと気づいたが、今は日が傾き始めた夕刻だった。
「おいキクチ、お前大丈夫なのか? 何日も無断欠勤したと思ったらその有様で。何かあったのか?」
「何もないよ」
マサシさんは伸びた前髪の奥から二人を異国の民を見るような目で見た。
「何もないわけないじゃない。そんな身なりで。ご飯も食べてないんじゃないの?」
煩い。とマサシさんは口の中で呟く。
「なあ、何があったんだ。部署のみんなも心配してたぞ?」
「うるさい! お前らに俺の何が分かるっていうんだ! 俺はミカと居られたらそれでいいんだ。ミカさえいればそれでいいんだよ!」
マサシさんは激高した。ぬかるんだ唾を撒き散らして、喚いて、そしてひざを折って泣いた。玄関のたたきの冷たさが、マサシさんから熱を奪う。ミカ、ミカ、と私の名前を何度も繰り返して。
「ミカって誰?」
マサシさんの目の高さにかがんだタナカさんが背中をさする。
「この部屋に誰かいるの?」
「ミカがいる。俺の、特別で、一番で、尊い人だ」
涙と混ざった鼻水が落ちて、冷たいコンクリートに染みを作る。私はマサシさんを抱きしめたくてたまらなかった。
「ちょっと上がらせてもらうぞ」
ヒロムさんがマサシさんを押しのけ私たちだけの部屋に侵入する。マサシさんはヒロムさんの脚に縋り付き止めようとするが、数日間不規則にカップラーメンを食べただけのマサシさんに男の歩みを止めるだけの腕力は無かった。
「おい、女なんてどこにもいないぞ」
「いる。いるよ」
マサシさんの声は心が拒絶するように震えていた。
「どこに? キッチンにクローゼットに本棚とベッド。あとはそこに椅子があるだけの部屋じゃないか」
「いるんだよ! そこの椅子に座ってる」
マサシさんが私の幻影を求めて駆け寄る。足がもつれて椅子の前に跪く。
「青いワンピースが似合って、長い髪が美しくて、澄んだ瞳で微笑んでくれる俺の女神なんだ。ミカは俺を肯定してくれる。俺は、俺はミカを愛している」
椅子の上には私が足を揃えて座っている。ノースリーブのワンピースからは華奢な腕が伸びて、マサシさんのボロボロの頬を撫でる。
「何を言っているんだ、マサシ。そこにはただの木椅子しかないぞ。お前、大丈夫なのか?」
マサシさんの瞳がひとつ、まばたきをする。
そこに私はいなくて、小さな木椅子に青いワンピースとピンクゴールドのネックレスがかけられているだけだった。
「ミカ、ミカはどこだ! ミカ!」
マサシさんの慟哭が小さな部屋中に響く。枕を投げて、床に散乱したゴミを蹴飛ばして、濁った眼から汁を撒き散らす。
「おい、落ちつけって、マサシ」
ヒロムさんが止めようとしてもマサシさんはどこにそんな力があったのか、振り払って南向きのサッシを開ける。
そして、ベランダの柵に足をかけ、四階から落ちた。
今日が燃え尽きる赤の中でマサシさんの身体は柳の根元でありえない形に曲がり、赤いものが土の中に抜け出ていく。
意識の遠くで、タナカさんの悲鳴が聞こえた。

「ミカ、愛しているよ」
「これからも、ずっと一緒ね」

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『エッタの椅子』 作:七日

昔々、あるところにエッタという幼い娘がおりました。
小さな体と人形のように美しい顔立ち、上品な服を着せられて。
可愛らしいエッタは宝石商を営む父親と二人、幸せに暮らしておりました。

エッタは店の机に並ぶ、キラキラとした宝石を見るのが大好きでした。
硝子細工よりも美しく、絵の具よりも色とりどり。
そんな宝石を父親の横で眺めるのがとても好きでした。

そんなエッタが六歳の誕生日を迎えたある日のこと。
父親はエッタに木製の椅子をプレゼントしました。
綺麗な木彫りの装飾に彩られた椅子をすぐに気に入りました。
そしてエッタは、宝石のよく見える場所に椅子を置いては、毎日座りました。
硝子ケースに入った宝石たちを、椅子の上でいつも飽きることなく眺めていました。

「赤い宝石は素敵な夕日の色。
青い宝石はまるで深い海の底。
緑の宝石は澄んだ川のよう。
黄色い宝石はお月様の色。

派手ではないけれど、淡く輝くの」

エッタはお気に入りの椅子の上で、宝石を眺めながら歌うようにそう繰り返しました。
エッタの言葉を聞いて、父親も常連さんもいつも笑顔でした。

しかし、そんなある日のこと。
エッタは重い病気にかかりました。
大好きな椅子に座ることもできず、大好きな宝石を見ることもできず。
苦しそうにベッドの上で眠ることしかできなくなってしまったのです。
父親は大変悲しみました。
伝を回り、腕のいい医者を見つけてはエッタを診てもらいました。
けれど、どの医者も首を横に振るばかり。

「お父さん。
赤い宝石はエッタの唇と同じ色。
青い宝石はエッタのボタン。
緑の宝石はエッタの瞳のよう。
黄色い宝石はエッタの髪の色。

忘れないで。
同じ色でなくても、エッタはそこにいるわ」

エッタはそう繰り返し、父親に聞かせました。
何度も、何度も、何度も、何度も。

遂には、エッタは白い美しい肌をさらに白くして、息を引き取りました。

それからというもの、父親は仕事に手がつかなくなってしまいました。
宝石を見れば涙を流し、エッタの椅子を見れば涙を流し。
エッタの椅子の前には、店の中でも最も美しい宝石を並べました。
しかし、椅子に座るエッタはもういません。

悲しみにくれる父親を見かねて、店の常連さんはある日人形師を連れてきました。
人形師は手に持っていたケースを開いて父親に中を見せました。
するとそこにはエッタと瓜二つの顔をした小さな人形が、目を閉じて眠るように入っていました。
「エッタだ、エッタが帰ってきた」
父親はそれはそれは喜びました。
そしてエッタと同じ顔の人形をエッタの椅子に座らせてやりました。

それからというもの、父親はとても元気になりました。
以前のように真面目に仕事に向かい、エッタの人形を甲斐甲斐しく世話しました。

朝食には一緒に着き、自分と同じ食事を人形の前に並べました。
昼食にはエッタの椅子を持ってきて、同じテーブルを囲んで談笑しました。
十五時になるとエッタの椅子の前に、宝石と一緒にティーセットを並べました。
夜になると、エッタのベッドの上で眠らせて、子守唄を歌ってやりました。

そんなある日のこと。
エッタの椅子をいつもの硝子ケースの前に置くと、突然椅子が喋りだしました。

「赤い宝石はエッタの血の色。
青い宝石はエッタの肌。
緑の宝石はエッタの咳のよう。
黄色い宝石はエッタの声の色。

弱々しく輝いて、エッタはそこにいた」

父親は大変驚きました。
けれど父親は椅子にこう言いました。
「何を言っているんだい。エッタはここにいるよ」
そう言ってエッタの人形の頭を撫でました。

しかし、次の日もエッタの椅子を同じ場所に置くと椅子は言いました。

「赤い宝石はエッタの目の色。
青い宝石はエッタの涙。
緑の宝石はエッタの嗚咽のよう。
黄色い宝石はエッタの指先の色。

弱々しく瞬いて、エッタはそこにいた」

それを聞いた常連さんはとても驚きました。
けれど常連さんはこう椅子に答えました。
「何を言っているの。エッタちゃんはここにいるわ」
そう言って、エッタの人形の髪を掬いました。

それでもエッタの椅子は、次の次の日も繰り返して言いました。

「赤い宝石はエッタの舌の色。
青い宝石はエッタの耳。
緑の宝石はエッタの胸のよう。
黄色い宝石はエッタの息の色。

弱々しくきらめいて、エッタはそこにいた」

その次の日も、そのまた次の日も。
椅子は何かを訴えるように、まるで責めるように。
宝石の前に置かれては、何度も、何度も、何度も、何度も、何度でも。
ひたすらに繰り返すのでした。

そんなある日のこと、父親は常連さんに言いました。
「どうか、上質な紙とインクを用意してはくれませんか。
いくらでもお金は払います」
常連さんは「えぇ、わかったわ」と言って、それは上質な紙とインクを用意しました。

次の日、また父親は常連さんに言いました。
「どうかペンを用意してはくれませんか。
昨日もらったインクで書き留めたいことがあるんです」
常連さんは「もちろん構わないわ」と言って、それは素敵なペンを用意しました。

さらに次の日、父親はまた常連さんにお願いしました。
「どうか丈夫な縄を用意してはくれませんか。
いらないものを縛りたいんです」
常連さんは遂に口煩い椅子を捨てるものだと思いました。
そして「えぇ、もちろんよ」と言って、丈夫な縄を用意しました。

しかし、次の日も、そのまた次の日も。
父親は店を閉めたまま姿を見せませんでした。
心配になった常連さんは、警察を数人連れてきて店を開けさせました。

そこには首を吊ってぶら下がる父親と、足元に転がったエッタの椅子がありました。

エッタがいつも眺めていた宝石の前には、一通の手紙と小さな人形が座っていました。
「私は、君を置いてはいけなかった」
そう綴られた手紙を読んでいると、エッタの椅子はいつものように喋りだしました。

「赤い宝石はエッタの唇と同じ色。
青い宝石はエッタのボタン。
緑の宝石はエッタの瞳のよう。
黄色い宝石はエッタの髪の色。

同じ色でなくても、エッタはずっとそこにいる。
ずっと、ずっと、ずっと。

エッタはそこにいるの」

悲しそうにそう言って、エッタの椅子は二度と喋ることはありませんでした。

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『ανάμνησις』 作:おもちりん

ぽおんと鐘を打って、大時計が低く呻る。いつものことだ。僅かな染みまで覚えてしまった本を撫でる。クッションに埋もれて、温まった椅子がか細い音を立てた。

草の香りがするページを捲って、青年は本に熱中するふりをした。すっかり見慣れた文字を追いかけて、物語に溢れる色たちを、頭の中で躍らせる。少しばかり褪せてセピア色をしたその欠片は、風に攫われるように歌を歌う。元々青年はそれをあまり好まなかった。
「なんだ、またそんなもの読んでる」
鼻にかけたような声が、照れるようにため息を吐いた。
青年は本が好きだ。その中では、小さなおとぎ話なんて好きではなかったけれど、それでも彼はよくこの本を読んでいた。草花の主が、太古よりその司るの朽ちゆくまでを見届けるお話。あまりに救いがなくて、優しくて、美しいお話。これは、彼が勧めてくれたものだ。何年か前の誕生日、丁寧な包装をして、自信なさげに手渡してくれた本。そういうこともあって、青年は未だにそれを手放せないでいる。青年が大事に持っていることに気付いた彼が頬を赤らめるのも、心地よかったから。
「まったく、暑いったらない」
やや乱暴に扇がれたシャツが、ぱたぱたとはためいた。
この頃は段々と気温が下がっているけれど、それでもまだ夏をひきずっていた。今日はすっきりと晴れていて、日が落ちてからは幾分涼しくなったと青年は思っていた。ただ傍らで焚かれた灯りのせいもあってか、多少汗が滲むのは事実だった。少し換気でもしようと、青年は本を置いて立ち上がった。勢いで傾いた椅子がきいきいと揺れる。潰れてうすっぺらくなったクッションが、耐えきれずにずり落ちた。青年はそれを放置して、すぐ向こうの壁際に手を伸ばした。薄青く光るドレープを引っ張って、現れた格子窓を押し開く。ひんやりとした風にあおられて、垂れていたレースがふわりと広がった。
「月が綺麗とは言ったものだけど、わたしは星が好きかな」
りんと響く高音に、囁きが紛れ込んだ。
今日の月は、綺麗に半分に割れていた。彼は星が好きだと言ったけれど、青年は月も好きだった。ただみんなが持て囃すような満月よりは、今日みたいな半月が好きだった。真っ二つに欠けたその葉っぱみたいな形が、まるでピエロのように青年を笑わせるからだ。白くてぼんやりと霞を描く模様は、眼下に広がる木々や石並のシルエットによく映えて、やっぱり少し滑稽だ。花の息吹が染みる。青年は涙が出そうだった。慌てて背を向けると、ずんずんと部屋の奥へ突き進んで、チェストに乗っかった置物を引っ掛けた。それは鈍い音を立ててカーペットを転がった。
「あなたときたら、そそっかしいんだから」
呆然とする後ろで、くるくると笑いが漏れた。
青年は自分がそそっかしいと言われることが、よくわかっていた。彼も含めた周りの人たちに指摘されているし、うっかりと壊してしまうものも多く、青年自身も困っていた。だから青年は、そもそもあまりごちゃごちゃと物を持たなかった。今まさに足元で横たわっているそれは、本と同じように、彼が寄こしたものだった。それだけではない。ウッドチェアやびろうど、それに手鏡からコルクボードまで、この部屋に居座っている実に様々な家具たちの大半は、彼が何かと理由をつけて持ち込み、そのまま置き忘れられていた。青年は転がったままの彫像を置きなおした。壊れてはいない。つるつるとした石で作られた繊細な天使はどこかよそよそしく、けれどすっかりそこを気に入ってしまったらしく、穏やかに寛いでいた。
「テーブルの上も、だいぶ華やかになったよね」
はじかれたグラスの中で、からりと氷が崩れた。
そういえば口の中が渇いた気がした。青年はテーブルまで引き返すと、水浸しのカップを取り上げた。一口呷ったところで、随分水っぽいことに気付く。仕方がないと、青年は隣の冷蔵庫からびんを引っ張り出した。びんなんて使っているけれど中身はただのジュースだ。彼はこういったやや古びたなデザインを好むらしい。硝子や木や、くすんだ真鍮なんかの魅力を熱く語っていた。あまり合理的でなく青年には理解できないところもあったけれど、青年は彼の好きにさせていた。彼のが持ち込むものの中には、青年の趣味に合うものもあったからだ。例えばそう、取り出したばかりのびんを覗いた向こうに傾いている、砂時計。緩やかな曲線を描く銀に囲まれている透明の七角錐は、陳腐な言い方をすれば、とても美しかった。
「意外だな、大事にしてくれていたんだ」
愉悦を滲ませて心音が、跳ねた。
けれど、埃もひとつかぶっていない硝子の中で、メールブルーの砂はぴくりとも動くことはない。ぽおんと鐘が響く。

――伝えられたら良かったのか。耳を傾けただ座すことは、愚かだったろうか。だが、僕の向かいに座るのは、きみでなくてはならない。かちりと穴に嵌まって、また逆転を始める音楽は、あの時僕らが送った何か。椅子の上で幸せを詠った影は、思想の上で永遠を謳おう。
さあ、僕らのとうと幸え奉れ!

水を捨て空いたカップにジュースをなみなみ注ぐ。とくとくと心地よい水音に合わせて、甘ったるい香りが鼻を掠める。ひとつ口に含むと、存外にさっぱりと溶けた液体が舌を滑っていった。少しばかり植物らしさのある冷たさは青年の気分をいくらかましにした。カップを手放すと、青年はぐいと腕を天井に伸ばした。開いた窓から吹き込む風と虫の声が涼しくて、青年は満足げに咳払いした。まっさらな水面にさざ波が立った。びんもカップも置きっ放しにして、青年は踵を返した。
「ちゃんと片付けなって、言ってるだろう」
鼻にかけたような声が、諦めたように咎めた。
青年は整理整頓が苦手だ。幼い時分からそうであったし、独り身であると尚更、自分の都合のいいように散らかしてしまうものだった。どこに何があるのかわかっているのだから、青年は別段困ることはないけれど、傍目に整っていない様を彼は気に入らなかった。度々小言を貰っては、しかし青年はあまり片付けをすることはない。整い過ぎた部屋は落ち着かないし、そんな青年を見た彼が、放っておいても物を動かしたりしていた。ほとんどが彼のものだったから当然と言えばそうかもしれないと、青年は思っている。それに彼の片付けは上手くて、青年の都合をよく抑えていた。だから青年は彼の作ったこの部屋が好きだ。キャビネットに手を掛けて、体を支える。本当によくできたものだったと、彼は心の底から感嘆した。
「もっとも、わたしも人の事は言えないな」
大きく広げた腕が、はらりとシャツの裾を翻した。
この頃はそれでも物が増えてしまったから、少しばかり手狭なのは確かだった。まったくこれだけの家具を持ち込んだことだ、青年は口の端を持ち上げた。エクステンションに乗った木盤上で、ナイトと踊るルークを摘まむ。ざらざらした感触が、妙に暖かく感じられた。本当はこれも何処か邪魔にならないところへ収めた方が良いのだろう。けれどまるでぴったりと嵌まった芸術のように、心臓を鷲掴みにしてしまうこの盤面を動かしてしまうことは、なんだか勿体ない気がしてならなかった。ぱちり。わざわざ音を鳴らして青年は二つの駒を倒した。
「時々、あなたがとても不思議に見えるんだ」
しんと沈んだ低音を、囁きが切り裂いた。
実際のところ、青年は頭を使うことは得意ではなかった。だからゲームだって、好きだったわけではない。けれど本を読んでばかりいたからか、勉強が好きなんだろうとか、パズルが得意なんだろうとか、勝手ばかり言われていた。彼はそんなこと、一度だって言ったことはなかった。だから至極対等に過ごしてはいたものの、やっぱりそういった分野で、彼は青年に負けるらしかった。それが悔しいと、しばしば青年にゲームを持ちかけていた。もちろん、彼と遊ぶことは楽しかった。彼はどうだったろうか。青年は唐突に、息を止めてしまいたくなった。
「きっといつだって、あなたには敵わない」
抑えた手の向こうで、するすると笑いが漏れた。
青年は、自身が彼に勝るなんて到底思えなかった。たとい青年が、ちょっとだけ良い成績を収めたとしても、大事なところではずっと、彼には及ばない。例えば、そう、チェスボードの隣の繊細なオルゴール。横に出っ張った金属を弄ぶ。そのねじを回せば奏でられるであろう幻想的な音楽は、彼が生み出したものだ。手を払って、ゆらゆらと壁にしなだれかかる。青年の頭上で微笑む額縁の花だって、彼の作品。部屋の内装だってそうだろう。青白い光が意識を攫う。感性に訴えることなど、青年にはできなかった。
「いいじゃないか、あなたはみんなうつくしいと感じることができる」
ぴちゃんとどこかに、雫が落ちた。
穏やかに明滅する光の元を目で探る。アクアリウムだ。内側を照らすためのライトと窓から差し込んだ月光が、水の中で万華鏡みたいに広がって、辺りを淡く染めていた。数多の彼に埋もれたこれは、青年のものだった。アクリルチューブこそはやはり彼が持ってきたものだけれど、青年たちには生き物を持つことが難しくて、そのまま放置されていたものだ。それを青年が、想像を頼りに、おとぎ話の世界に作り替えた。生き物のいない、水に沈んだ、けれどたくさんの木々を模した世界。ぽおんと鐘が、響き渡る。青年ははっとして水槽を覗き込んだ。視界いっぱいに飛び込んだメールブルーは、黙って渦を巻く。その中の草花は、たしかに息づいていた。
「だから、ね、あなたはわかっている。いいだろう、もう、わたしたちも」
どくんと大きく、心音が跳ねた。
青年はおもむろに、室内へと振り返る。倒れたポーン。微睡む天使。回らないオルゴール。濡れたカップ。褪せた本。なびくカーテン。散らかった部屋。砂時計の砂は、落ちることはない。そこではただ、からっぽの椅子が二つ、立ちつくしているだけだ。
青年はよろめきながら、己の椅子を目指した。もうそろそろ、行かなきゃ。なんとかたどり着くと、クッションをずり上げて、腰を沈ませる。ああ、もう、そんな時間なのか。目を閉じて手に馴染んだ本を手繰り寄せる。行ってしまうのだね。青年は小さく唇を動かした。

ぽおんと鐘を打って、大時計が低く呻る。いつものことだ。僅かな染みまで覚えてしまった本を撫でる。クッションに埋もれて、乾いた椅子がひとつ、か細い音を立てた。

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『その椅子に座る者』 作:ぴえ


「……か」
暗闇の中、声が聞こえた。それは遠くて、上手く聞き取れない。
「おい……か?」
先程よりも声が近く聞こえた。
あぁ、そうか、と思う。これは声が遠いのではない。僕の意識が近付いているのだ。
「おい、大丈夫か?」
次第に意識がはっきりとしてきた。身体が揺らされている。
「ん……」
「気が付いたか?」
「……貴方は? いや、ここは……」
声をかけていたのは黒髪の男性。三十歳ぐらいの知らない人。そして、周囲を見渡す。僕がいたのは木造の部屋だけど――ここは、何処だ?
「ここは何処ですか? いや、僕は――誰だ?」
※※
「記憶が無いのか?」
俺は、目を覚ました青年に問う。十四、五歳の若い金髪の青年だった。彼は明らかに混乱している。視線は様々なところを彷徨い、止まらない。
「落ち着け。ゆっくりで良いから、解ることを話せ」
「は、はい」
青年の呼吸は荒い。状況を理解出来ない、という不安が大きな負担になっている。どうやら、俺から話す方が得策のようだ。
「俺はアベル。魔術師だ」
「魔術師様……ですか?」
「あぁ、ここには気になることがあって来た。そしたら、お前が倒れていた」
「僕に……用ですか?」
「いや、お前じゃあない。俺達の目的は――」
俺はこの部屋にある一つの『椅子』へと視線を移した。
古く、重厚な木製の椅子。座る部分と、背もたれには血のように鮮やかな赤のクッション。肘掛や、所々に彫られた文様は、この家の家具にしては違和感を覚えさせる――それほどの高級さと、禍々しい雰囲気を感じさせた。

俺達がこの家に来たのは『宝具』がある、という噂を聞いたからだ。魔術師の力に強大な影響を及ぼす『宝具』。それは魔術師からすれば、喉から手が出るほどに欲しい貴重な代物だ。
この世界で魔術師の役割は重要だ。
人々を恐怖と絶望へ誘う『悪魔』。その悪魔に、魔術を使い、戦うことが出来るのが魔術師だ。だが、その存在は貴重なのだ。
理由は簡単だ。魔術を使う為に必要な魔力。これは、持っている者と持たない者に分かれる。そして、前者の数は圧倒的に少ない。その為、魔術師は周囲の人々から神のように扱われることもある。
悪魔から人々を護る為、『宝具』は必要――というのは建て前だ。
実際は違う。魔術師はその存在が特別だが、その特別の中でも特別になりたいのだ。圧倒的な魔力を持ち、その頂上に君臨したいのだ。
強欲だと思う。だが、その欲を満たす『宝具』がここにはある。
『誓約の椅子』
その椅子に座ると、最強の魔力が与えられる――有名な『宝具』だ。

「あの……」
椅子を見据える俺に、青年が話しかけてきた。
「どうした?」
「あの……先程、俺達、と言いましたが、魔術師様にはお仲間が?」
「あぁ。おい、カイン!!」
俺は大きな声で、仲間を呼んだ。
「何人で来たのですか?」
「俺を含めて二人だ」
そんな会話を交わしていると、ぱたぱた、と足音が近づいて来る。
「何だよ、アベル?」
部屋の出入口から茶髪の男――カインが顔を出す。俺と同年代で強力な魔力を持つ魔術師だ。
※※※
「その青年、目を覚ましたのか?」
私は状況を理解し、アベルに尋ねた。
「あぁ。そっちはどうだ?」
「この部屋の他には居間と寝室が一つ。それらしい『椅子』は無かった。だから、おそらく、それだろうな」
私が視線で、この部屋にある『椅子』を指すと、アベルも静かに頷く。
私もこの家に来た時に、この部屋の椅子と気を失った青年を見ていた。家は小さいが、他にも部屋はあるようだったし、青年が気を失っていた、ということは誰かいるかもしれない。だから、役割を分担することにした。
アベルは青年の保護。私は家の探索だ。結果としては、この家には他に誰もいないし、『宝具』と思われる椅子も無かった。
「彼から何か聞けたのか?」
「いや、記憶を失っているようだ」
「記憶を?」
「もしかしたら、この家の者じゃあないのかもしれないな」
「いや、それはない」
記憶を失っていたことには驚いたが、アベルの推察は間違いだ。私は探索時に見つけた写真を指で弾いて、彼に飛ばした。
「これは――この青年だな」
「この家のアルバムにあった。他にも日記があって読ませてもらったが、どうやら木こりで平凡に過ごしていたようだ」
それを知った上で部屋を見渡すと、斧が一本だけ壁に掛かっていた。おそらく、彼の仕事道具だろう。
「あと、魔術でこの辺りを調べたが、悪魔や人の気配はない」
「そうか。じゃあ、俺はこっちを調べるぞ」
そう言って、アベルは人差し指で青年の額に触れる。
「な、何を……」
「黙ってろ」
アベルが今から行うのは記憶を読み取る魔法だ。難解な魔術で、使える魔術師は少ない。
「駄目だ」
「どうした?」
「この青年――記憶を消されている。明らかに、誰かに、故意的にな。その痕跡だけは感じられた」
※※
「この辺りに悪魔や人……魔術師の気配はなかったんだな?」
「あぁ……」
愚問だとは解っていた。カインが魔術を使って取り逃がすことはないだろう。ならば、何故この青年は記憶を失っているのか。
「椅子を奪おうとして、青年に見つかり、動転。青年を襲い、記憶を消して逃げた……か?」
「そうだな。その椅子が例の宝具だったら、魔術師が訪れている可能性はある」
カインが同意する。しかし、疑問が一つ残る。
青年を襲い、記憶を消したのが魔術師であっても、悪魔であっても、何故、『宝具』を奪わなかったのか。
「本物なのか、偽物なのか、確かめる必要があるな。強大な力を得た魔術師の話なんて聞かないから、後者の確率が高いが……」
「前者だったら他の誰かが奪いに来る前に、その力を得たい、だろ?」
俺の思考を先回りしてカインが話す。思わず笑ってしまった。
「ここに来る前に約束した通り、アベル……お前が先だ。私はその後で良い。『宝具』の力は山分けだ」
「あぁ。じゃあ、先に失礼」
『宝具』が力を与えるのは一人だけではない。使用者が力を得るのだ。その前例はいくらでもある。ならば、この椅子は座った者に力を与える。そして、その力を得るのは俺とカインだけで良い。その後は壊して、他の者が力を得ないようにするつもりだ。
「いくぞ」
一度大きく深呼吸し、俺はその椅子に――座った。
※※※
「がっ!!」
「え……」
それは一瞬だった。椅子に座ったアベルが白骨化したのだ。
「あ……アベル……」
私は近付くが、次の瞬間、骨は砕け床へと落ちていった。
「ひぃぃ!!」
青年の叫び声が響く。当然だ。あまりにも突然で、残酷な出来事なのだから。しかし、私の思考はこんな時でも冷静で、一つの回答を導いた。
青年の記憶を奪った者が誰かは解らないが、その者もこの椅子に座ったのだ。だが、結果はアベルと同じ――死んでしまったのだろう。
「そういうことか」
そう呟くと、私は椅子の上に残っていたアベルの服を払いのけ、椅子に座る準備をする。
彼が死んだことに、悲しみを感じていなかった。それよりも、強大な力を独り占め出来る好機を喜んでいる。
「す、座るのですか?」
青年の怯える声が聞こえる。
「当然だ。強大な力をリスク無しで得られるとは思っていない」
そう答えて、私は椅子に――座った。
「ぐっ!!」
『耐えたか』
その声は椅子から聞こえた。と、同時に理解したのはその椅子が私の魔力を吸い取ろうとしていること。
『今日は魔術師が二人とは景気が良いねぇ。しかし、結界を張るとは警戒してたんだな』
「……誰だ」
『俺はサタンの椅子ってもんだ』
その名前は聞いたことがある。魔術師の魔力を死ぬまで喰らうことを目的とする有名な悪魔。しかし、何故だ、その気配は先程までなかったのに。
『俺は誰かが座って初めて存在するからな。さっきまでは単なる椅子だったんだよ』
私の思考を読むように、サタンの椅子は答える。いや、事実、読んでいるのだろう。
「随分と余裕のようだが……誤算があったようだな。青年!!」
私は青年を呼び、部屋にある斧へと腕を伸ばし、指差した。
「は、はい」
「この椅子は悪魔だ。だが、私が耐えている間は何も出来ない。だから、その斧で椅子を壊せ!!」
私の指示に従い、青年は斧を手に取る。勝機はこちらにあった。
『馬鹿だねぇ』
その声が聞こえると同時だ。ドン、と音が響くと私は目を疑った。
椅子が砕かれたのではない。青年が私の腕を叩き切ったのだから。

「ぎゃあああ!!」
「五月蝿いな。記憶の戻りたては頭が痛いんだから、静かにしてよ」
魔術師の叫び声に苛立ちを覚えながら、僕は斧を肩に担いだ。
「まさか、悪魔に操られて――」
魔術師が的外れな推論を語ろうとする。これまでの魔術師達のように。
『違う、違う。そいつは俺の契約者だ』
「な……なんだと……」
魔術師の顔は恐怖で引きつっていた。笑える。
「本当だよ。僕は魔術師を殺す為に悪魔と契約した。それで、この手法を考えた」

僕が考えた魔術師の殺し方は簡単だ。ポイントはどうやって椅子に座らせるか。
魔術師は強欲だ。だから、『宝具』の噂を流せば、食い付き、ここへ来る。
次に、重要なのは僕の振る舞い方だ。演技をしても騙せるとは限らない。ならば、最初から何も知らなければ良い。だから、悪魔に記憶を消してもらい、魔術師が座ると同時に戻すように頼んでいる。今回も案の定、僕の記憶を探ったようだが消されているので問題は無かった。
複数で来た時は、残りの一人になるまで記憶を戻さないようにしている。大切なのは、僕が敵だと悟られないこと。
多少の疑問はあっても、魔術師達は椅子に座る。理由は簡単――強欲だから。目の前に強大な力をくれる椅子があるなら、疑念を拭わず座る。それは自身の力を過信していることもあるのだろう。

「な、何故……」
魔術師が恐怖と絶望に満ちた表情で、僕に問う。本当に笑える。
「僕の家族はね、魔術師に殺されたんだ」
僕は淡々と語る。
「金持ちじゃあないけど、家族は幸せだった。そして、両親が地道に働き、新しい家を持った時――住んでいた街が悪魔に襲われた」
その街を救ったのは魔術師だ。だが、その戦いの中で家は破壊され、中にいた両親は死亡。最初は仕方ない、と思っていた。多くの人が救われたのだから良いではないか、と。
「だけど、その後、楽しそうな魔術師達の会話を偶然聞いた。僕の家を壊す必要はなかったんだって。でも、わざと激しく暴れて壊した。理由は何だと思う?」
「……私は関係ない」
「空を飛んで移動する時、新しい家が太陽の光を反射して、眩しくて、邪魔だったんだって――ふざけてるよね?」
「私は関係ない!! 私は関係ない!!」
「僕は思ったよ。強欲で、自分を神様と勘違いしている魔術師なんて――死んだらいいって」
「私は関係ない!! 私は――」
「お前、五月蝿いよ」
僕は首に狙いを定めて、持っていた斧を振り抜いた。
※※※※
『順調だな、相棒』
俺に座る――契約を交わした青年に語りかける。魔術師の死体を放置して悠然と座る姿は中々に様になっていた。
俺達が交わした契約は単純だ。
青年は魔術師を殺す。その殺した魔術師は俺が喰らう。
「うん。だけど、まだ世界には魔術師が残っている。そいつらも、いずれ来るだろうね。まぁ、殺すけど」
青年の家族を殺した魔術師は既に死んでいる。今回と同様の手法で殺した。復讐ならば完了している。だけど、青年は止まらない。
「魔術師なんていなくなった方が良い。強欲な魔術師が支配する世界なんて偽物の平和で、実際は地獄だ。救った対価以上に人々から金や物、名誉を求め、神様気分だ」
『魔術師も所詮、人。人の欲は尽きない』
「僕からしたら同等の対価しか求めない悪魔の方が真っ当だ」
そう言って、青年は疲れた表情で息を吐く。
「僕は少し眠るよ」
『あぁ、解った』
魔術師を殺すために行われる記憶の削除と復帰。身体への負担は大きい。通常の人間なら死んでいても不思議ではない。それでも青年が耐えるのは、魔術師を殺したい、という単純な殺意と憎悪からだ。
『いつまで耐えるかね?』
「魔術師を全員殺すまで」
『寝ろよ』
「座っていると、お前の声が五月蝿いんだよ」
そう悪態を吐き、青年は今度こそ眠る。

青年が望む――全ての魔術師の殺害。
これは言い換えれば、世界を制することと変わらない。
青年――お前は誰よりも強欲だ。だが、俺に座る者はそれぐらいが丁度良い。

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『またきてしかく』 作:星 宗介

ぼくの背後で、目すら潰れる鋭い一閃が駆けぬけた。
さよなら、と呟くほか無かった。だってぼくはこの部屋から出られない。きみは何処かへ行ってしまえど。

密室と椅子。そこに座るぼくと、画面に映るきみ。世界はそれで完結している。
ぼくの冗談を笑ってくれる彼女につられて頬が綻ぶ。
電話の声は本人のものでなく、似た音を組みあわせて聞かせているのだと誰かに教えてもらったことがある。であれば、自分はもう二度と彼女の声をちゃんと聞けないのだろう。
窓の外、青い惑星を見つめ目を眇めた。

テイの乗る軍用ロケットはもう、果てなく藍色が覆う星の海で漂うばかりであった。母星は争いに関して非力で、以前から宇宙戦争で常に劣勢を強いられていた。そうしてとうとう、保てなくなってしまった。
「なんかさ、こうして話す時間ってこんなに切なかったっけ」
「わたしは結構思っていたよ?」
「ぼ、ぼくもだよ」
「また適当言って」
そんなきみの前で、見せつけるようにサイダーを飲んでしまうぞ! 彼女は栓を開けて、炭酸が逃げだす音を鳴らす。いつ聞いてもその音は、幼少期にお小遣いを出しあって買ったあの夏のサイダーを感じさせてくれる。

此度の戦争は、生命が棲まう星を減らす、なんて恐ろしい主張を掲げる者たちが発端だった。
まだ二人が産まれるずっと、ずっと前。地球が、生命の存在する唯ひとつの天体だと思われていた頃には想像もできない規模で、生物は繁殖を続けている。それをよく思わないとある惑星で、とある思想が生まれた。
――生命の選別。それを目的とする、過激な人々。
宇宙規模の隣人はやがて選民思想を抱き、初めこそそれで終わっていたけれども、今では見る影なく文句をつけては自分と違う存在を迫害し、灯を消すのに躍起になった身勝手な支配集団と成り果てていた。
そしてその苛烈な思想というナイフの先端は隣星、テイが住むL二九へと向けられた。
敗戦した彼の星は、その思想によって失われる。人間の描く選別という驕りに抗えずに。

「ずるいよ、きみばかりキンセイサイダーを飲んで! ぼくにも分けてよ」
「もう、仕方ないなあ」
テイの宇宙でもっとも愛しい恋人、レアは笑う。頭上で生まれもった触角が揺れる。
彼の星……L二九の人間には、必ず二本の触角が生えている。細くしなやかな棒の先にピンポン玉がついているような。遠くからだと、大きなエノキにも見える。
レアは、先ほど封を切ったペットボトル――テイの言うキンセイサイダーだ――を傾けて、彼女の座る椅子近くに設置された、漏斗型の機械へと注ぎこむ。すると今度はテイの隣にあるウォーターサーバーから、置きっぱなしのマグカップへ液体が注がれた。
液体に特化した物質転送装置、通称テレポーターだ。手を伸ばせば届くほどの距離にあるそれは、船長のずぼらさを視覚化したみたい。
「これが無かったらぼく、干からびて死んでたな」
「あとは食べものが送れたらいいのにね」
彼女の声色は真剣だ。テイは一週間ほど、食事ができていない。そもそも、もう彼のいる部屋には食べものはおろか、何一つ残っていないのだ。船の燃料すらも。寝転がる船員の息なき昼寝も見飽きた。
しかもそんな事態のくせして固形物は転送できない。レアからテイへ送れるものは声と気持ちと水くらいなものだった。
転送には物質をいったん、分子ほどまで分解する過程がある。液体はなんとかなれど、固形物はいまだそこからの復元ができない。袋入りのパンを転送させようとすればビニールとパンが混ざりあい、食べられようもない物体が届く。袋を外して送っても、形が歪すぎるパンのようなものがまれに届く、くらいの成功率だ。もとがどうあれ、味は大概まずい。
宇宙旅行なんて当たり前。個人用の空を飛ぶ乗り物は世に溢れ、銀河を旅する民もいる……これだけ技術が進歩しても、テレポーターというものはさほど現実味を帯びない。

――今この瞬間に使えるのなら、ぼくは彼女の隣でぼくを終えることができるのに。流石にミキサーにかけられる思いをしてまで、転送されようとは思えない……。
「不確かな再会に賭けるよりも、遠いところで最期の最後まで言葉を交わすことをぼくは選ぶ。臆病者だと揶揄する人がいてもそれは曲げないぞ。だって死ぬのは怖いもん」
それを二日前にほろりと零してしまったのだが、彼女は馬鹿にもしなかった。わたしとの時間を一秒単位で大事にしてくれるのね、なんて嬉しそうな返しにはもうミキサーでいいやと考えるくらいに自分を情けなく感じた。いや、しないけれど。言葉のあやというものです。
でもそんなことを言われてしまえばなおさら、会いたい気持ちは募る。
ところで、軍の通信設備を私的利用ばかりしている彼女が非常に気がかりだった。敗戦してからずっと、ぼくとテレビ通話をしているのだから。
「いくらきみでも怒られない?」と尋ねたところ「もう誰も、なにも咎めないよ」と笑われた。どういうことかと質問を重ねる。相当、地上は混乱状態らしい。おそらくL二九の人間でもっとも落ち着いているのは彼女なのだろう。
「皆すきずきに遊びまわっているよ。だってわたし達、最期の日だもの」
だからわたしも、ずうっと気になっていた設備を使い放題なの。ずいぶん忙しそうなご様子で、軍部通信室のスーパーコンピューターを触りつづけている。その姿を延々と眺め喋りつづけているぼくは、船長席の上質な作りの椅子に座ってご機嫌だ。似たもの同士だ。あとどれだけ座っていても腰が疲れない椅子って本当にあるんだなあ。レアと同棲していた部屋で愛用していた椅子を思い返す。あれはお尻が痛くなった。
「地上も大変だね。こっちもこっちで一人ぽっちになってしまったけれど」
「基地にもわたしくらいしか残っていないんじゃないかな。嘘の災害警報を流して追いだしたし」
「ええ……」
「暴動とか奇行とか、目も当てられなかったの。同じ空間にいたくなかった」
情報操作や通信妨害なんでもござれと、ぼくの恋人はたいへん素敵な星一番のハッカーだ。第一級警報を鳴らすなど造作もないのだろう。船でもヒラなぼくには見合わない最強の恋人です。
しかし、落ち着いた彼女の口ぶりとは真逆に、左手が絶え間なくガタガタとキーボードを叩き続けているのはとてつもなく気になる。ずっとだ。通話しているあいだ止むことのないそれは、おそらくぼくが見ていない時でもガタガタ言わせているのだろう。スパコンにはしゃぐとか云う程度でもない。何時でもその音はぼくら二人の特別な時間に大きなソファベッドを置いて居座っている。なにをしているのか訊けば決まって「最後の最後の大仕事」と彼女の一番の武器、笑顔を咲かせて見せられた。
おもえば、幼い頃からこの娘は頻繁に“大仕事”をしていた。ツキメダカの飼育日記の時もあったし、タイヨウガエルの解剖をしていた時も“大仕事”だった。昔から変わらない、変わり者だ。
ぼくらのこの過去の記憶は、思い出は星ごと消えてしまうなら、何処へゆくのだろう。
センチメンタルでアンニュイな感情が心の殻をくすぐってくる。……詩的表現をしてみたかっただけ。というか、柄にもなくぼくの中身が揺らいでいる。だからこんな不思議なことを考えだす。気持ちとかそれだけじゃない。思考も何もかもが、ぐらぐらと。不安定な場所に置かれた皿にでもなった気分だ。
「失くなってしまうんだろうか、全部」
そんな弱気な言葉が口を衝いて出た。心弱いのは生まれつきだ。レアは相も変わらず、左手で忙しなく奏でながら言いきる。休暇なく働く薬指で、いつかプレゼントした指輪が光を反射させていた。
「失くならないよ、何も。わたし達がこうしてキンセイサイダーを分けあったことも、幼い頃にカセイキャンディをプレゼントしあったことも、指輪をくれた旅立ちの日も」
一室にひきこもって、映像越しに椅子に座って向かいあうこの一瞬さえも。
全部がこの宇宙にまるごと、刻まれているんだ。むしろ宇宙なんてわたし達が一緒に住んでいたあの部屋みたいなものだよ。つまり、すべてがわたし達の部屋なのだ。――ぼくと違い、知ったように大きな口をきく彼女のそんなところが昔から好きだった。今でも大好きだし、きっとこれからがあったのなら、ずっと……いやむしろ。
「ぼくはこの世界すべて亡くなっても、きみが好きだよ」
改まってなあに? 少し恥ずかしそうな彼女がやっぱり愛おしかった。時計はもうじき十五時を指す。そろそろだ。
「大仕事、おわったよ」
このタイミングでなにが終わるんだ? そろそろ教えてくれるだろうか。聞かないからって気にならないわけじゃない。教えてもらえないだけだし。気になる態度を隠しもせずにいると、レアは口元に指をあてて、静かにと囁いた。
――なんだよ、もうすぐ死ぬってのにそんな可愛い仕草をして。
ちょっと皮肉らしく思いながらも、そのとおり静かにすると、ヴヴヴと微かなバイヴレーションの音を耳が拾った。この部屋の壁際に寝そべる副船長の胸元からだった。
それは別のロケットからの通信を知らせるものだった。驚いて、ランドセルによくついている防犯ブザーほどの大きさの装置を取り出し、通信許可のボタンを押す。
「……者はいるか。繰り返す、生存者は……応答願う」
真っ白な部屋、あと椅子。それで完結していたぼくの世界で久しぶりに、彼女以外の声を聞いた。驚きも過ぎて腰が抜けた。
「こっ……ちら、L二九所属、後方支援軍用機“カフ”搭乗員テイ。生存はぼくだけだ! 通信可能域にいるのは誰なの」
声が上擦る。まさか生き残っている船がこれ以外にいるなんて。広い宇宙で独りじゃない。涙すら出かける。彼女がずっと話してくれていたのに。ぼくという情けない奴は、それでも誰かと共に終えたかったのだ。
しかし、返ってきた通信はぼくの期待にちっとも応えてくれなかった。
「こちらA一三所属、惑星警察。うちの宙域に漂流船が迷いこんでいると匿名の通報があったのだ。見るに貴殿しかいまい」
聞いた所属は母星でもなければ敵でもない別の隣星、永世中立惑星A一三だった。いつの間にそこまで流れついていたのか? 疑問はある一つの仮定を直ぐ導きだしたけれども、信じたくなくて解らないふりをした。だって、元々の進路では他星に寄せられることなど万に一つもない。この船は帰星する最中で燃料が切れ航行不能、地に戻ることも叶わず、ただただ母星を向き続けるだけのはずなのだ。それを曲げられるのは……。
「遭難は宙域侵入罪が適用されない。とはいえテロ対策に面接は多いが、それはまあ命拾いするのだから大目に見てくれ」
恐ろしくて、ずうっと見つめつづけてきた画面を視界に入れられない。彼女がもし笑っていたら、ぼくはどうすればいいか分からないんだ。
通信部からできることには幾つかあるのだが、その一つに思い当たった。ロケットの姿勢制御……コンピュータから指令を送ることで、向きや進行を思うままにできるそれ。
あとは彼女の得意とする……ハッキングだ。まさか隣の惑星警察に通報するなんて、彼女ほど捻くれていればやりかねない。しかも足がつけば確実に怪しまれる、スパイの疑いが一番に掛かるだろうから。こんなの、まさしく“大仕事”だ。一人の為だけにこんな。
ぼくの平凡な頭が加速して混迷していく。シリアスなムードにそぐわない、ぽおんと気の抜けた通知音が部屋に響く。ああ、ダメだ。僕の口から気の抜けたサイダーみたいな呟きが漏れた。
その通知音は、十五時の――
「さよならさんかく」
聞き馴染んだ声が、幼い頃によくした言葉遊びの冒頭をなぞった。そうして、通信を一方的に切られた。
「やめて」
それは彼女に宛てたものなのに、独り言になった。
「ゆかないで」
ぼくの背後で、目すら潰れる鋭い一閃が駆けぬけた。崩れるさまは硝子玉を落として割ったようだった。

惑星警察の声も上手く聞き取れない。白く濁るすべての中、テレポーターの受信を報せる通知ランプが灯っていることだけ気づいた。背中が椅子に溶けてこびりつくみたいな感覚を味わいながらなんとか首だけそちらへ向けると、そこにあるのは歪な銀色の塊。どれだけ形がめちゃくちゃになっていたって判った。
彼女にあげた指輪だ。この期に及んでたったこれだけ、会いに来た。それでも――さよなら、と呟くほか無かった。だってぼくはこの部屋から出られない。きみは何処かへ行ってしまえど。

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『カシオペア』 作:千梨

カシオペアと呼ばれた少女は、自分が座っている椅子を愛しむようになでた。この椅子は、彼女の肉体の一部と言っていいほどに、カシオペアの人生を共にしてきた相棒のようだった。カシオペアが持つ記憶には、いつもこの椅子の、滑らかな石造りの感触が染みついている。椅子は彼女のことなら何でも知っていた。
物心ついた時から、カシオペアはこの椅子に座っていた。周りは暗闇ばかり。手探りで分かるのはこの椅子があることだけだった。なぜなら、身体は縄で縛られ、カシオペアはここから一歩も動くことができなかったから。彼女は自分がどこで生まれて、どんな家族がいたのかさえ知らなかった。
窓のない部屋。他人との会話もなく、ただ黙々と一日が過ぎていく。そのなかでカシオペアは自分がすべきことを教えられた。
それは、神のために身を尽くすこと。彼女は神に祈り続けなければならない宿命を背負っていた。ずっとそんな風に過ごしてきたので、カシオペアはそれをちっとも変だとは思わなかった。

その日やってきた食事係が、いつもとは違う人物であることに、カシオペアはすぐに気がついた。足音の軽さから、その人物がまだ子どもであるということも。
その少女はシラーと名乗った。
シラーは他の世話係と比べると変わっていた。他の世話係はカシオペアが声をかけても、少しも反応しようとしなかったのに、彼女は自らカシオペアに話しかけてくるのだ。シラーはよくしゃべり、よく笑った。今まであまり人と話すことのなかったカシオペアは、そんな彼女に戸惑うばかりだった。
「おねえさんは、いつもここで何をしているの?」
「……神さまに奉仕をしているの」
「『ほうし』って?」
「祈りをささげるのよ」
「一日中ずっと? そんなことばっかりして飽きないの?」
「飽きたりなんてしないわよ?」
シラーは納得できない様子だった。
「ふーん。外にはもっと楽しいことがいっぱいあるのに」
シラーが椅子に寄りかかる。
「わたし、おねえさんと……外で遊んだりする、普通のお友だちに、なりたかったなあ」
シラーは寂しそうだった。彼女は外の世界のことについて、カシオペアに色々なことを教えてくれた。
「夜にはね、空にお月さまが昇るの。お星さまたちもきらきら光っていて、綺麗なんだよ」
彼女が楽しそうに話していても、カシオペアは何も答えられずに、相槌を打つばかり。
――私はこの部屋以外、何も知らない。……私がはっきり分かるのは暗闇と、座っているこの椅子と、神さまのことだけ。
シラーが生き生きと話すのを見て、カシオペアは少し羨ましかった。

随分前から誰も見かけない。カシオペアは、自分が、もうとっくに誰からも忘れられてしまったのだと思った。
座っている椅子だけが、ずっと彼女の人生に寄り添っている。シラーとの思い出は、自分が勝手に想像して作り出したものではないだろうか。カシオペアにはそう思えた。
忘れられようと、今日もカシオペアは天に祈り続ける。それが彼女の生きる理由だから。
「おねえさん!」
その時、久しぶりに懐かしい声が聞こえた気がした。頭で考えるよりも先にカシオペアの唇が動く。
「シラー?」
「……? 違うよ。わたしの名前はルシア」
シラーと同じくらいの年頃で、口調も似ている。しかしその子が自分が思い描いていた子ではないことは、姿は見えずとも、声を聞いてすぐに分かった。
カシオペアはがっかりした。しかしルシアという少女は反対に、カシオペアのことが気になるようだった。
「あなた、お名前は?」
「……カシオペアよ」
「カシオペア?」
ルシアは驚くように声を上げた。
「あなた、お星さまと同じ名前なんだね」
「え?」
「星座のこと! ……ここで何をしているの?」
暗闇のなかで言葉だけが響いてくる。
「……待っているのだと思う」
「誰を? さっきのシラーって子?」
「そうね。……多分」
ルシアは不思議そうに見て、話を促す。
「いつから待ってるの?」
「ずっとよ、ずっと……。時間なんて分からないわ」
「そうなの?」
「だってそうでしょう? この部屋は石の壁に囲われていて何も見えない。だから、いつからなんて、私分からないわ」
「……そっか」
それを聞いたルシアは優しく答えた。彼女の話し方はなんとなくシラーに似ているような気がして、カシオペアは少し嬉しかった。
ルシアは元気よく言う。
「とにかく、カシオペアはシラーって子に会いたいんだね。じゃあ捜しに行こうよ! わたしも手伝うよ?」
「……無理よ」ルシアの提案を、カシオペアは悲しそうに拒絶した。
「私、ここにいなければならないの。みんなの為にも、ここでずっと祈り続けていなければならないわ」
ルシアは何も言わなかった。沈黙が流れる。
彼女に嫌われてしまったかもしれない。カシオペアはそう思った。
その時、ふと頬に何かが優しく触れた。目を上げると、そこには不思議な虹色の玉が沢山、ゆらゆらと漂っていた。
「これは……?」
「シャボン玉。綺麗でしょ?」
シャボン玉は彼女の身体をすり抜ける。
――どうして?
わけが分からないでいる内に、シャボン玉たちは部屋の上の方へと迷うことなくまっすぐ昇っていった。
――そこから外へは出られないのよ……。
カシオペアはそう思って天井の方を仰ぎ見た。けれどもそれは間違いだった。
確かに天井は存在した。しかしその石造りの壁は明らかに年月によって古びてしまっていて、穴がぽっかり空いてしまっている。その隙間からシャボン玉は広い空へと、ふわりと緩い曲線を描きながら飛び立っていった。
空には丸い月が一際明るく輝いている。
――さっきまであんなに暗かったのに、急に色んなものがとても良く見えるようになったわ。……それにしても、この部屋はどうしてこんなに急にぼろぼろになってしまったの?
カシオペアはやっとルシアの顔を見ることができた。カシオペアが自分を見ていることに気がつくと、ルシアは嬉しそうに笑った。
「やっとこっち向いてくれた」
パチンとカシオペアの中で何か弾けるような音が聞こえた気がした。
「あ……」
まるで魔法が解けたかのように、カシオペアは理解した。自分の街が滅んでしまっていて、自分自身も、もうとっくに死んでいたのだということを。だから誰も、ここへ来なくなってしまった。
「気づいたみたいだね。 ……一緒に外に出よう? 星を見に行こうよ」
促されて、カシオペアは恐る恐る椅子から立ち上がった。身体を縛っていた縄は役割を終えて、静かに朽ち果てた。
二人は部屋を出て外に出た。周りにはススキがどこまでも続き、建物にさえぎられなくなった紺色の空には、点々とした光がどこまでも広がっている。
「これが、星……?」
「そうだよ! それに、こっちがお月さま」
ルシアが満月を指差す。
「わたし、星のお話を知ってるんだ。あなたに教えてあげるね。今は秋だから……お姫さまが勇者さまに助けて貰って、幸せになる話ね。あれがお姫様のアンドロメダ、そしてこっちがペルセウス……お姫様を助けてくれるの」
聞いている内にカシオペアは、星たちがまるで命を持ったように動き始めて、物語を語り始めているような気がしてきた。
「それであそこにある星をつなげると、カシオペア! あなたと同じ名前なんだよ。昔神さまに怒られて、椅子に座ったまま空を回り続けなきゃいけなくなってしまったんだって」
カシオペア。自分と同じ名前を持つ星の形を、彼女は食い入るように見つめた。
「おねえさん」
もう一度懐かしい声が聞こえて、カシオペアはひどく驚いた。
声のした方を向くと、半透明の身体をした女の子がこっちを見ていた。姿は知らなかったが、声は間違いなく知っている。
「シラー……」
シラーははにかむ様に笑った。彼女の身体の向こう側には、ススキが揺れている。
「おねえさん、ずっと気づかないんだもの。わたしはいつもお姉さんに話しかけてたのに」
「そうだったの……ごめんなさい」
自分の殻に閉じこもっていた彼女には、シラーの声など届かなかった。死んでしまってから、カシオペアは世界に閉じ込められていたのではなく、自ら世界を拒絶し、閉じこもっていたのだった。カシオペアはそのことを自覚して、シラーに語りかけた。
「私は多分、あなたの話を聞いてから、外の世界のことをもっと知りたくなってしまったのね。もっと知りたかったのに、外の世界を何も感じることができずに、自分が死んでしまったのが嫌だったんだと思う。だから、身体を失ったまま独りでずっと、ここに居た」そう言ってから、少し眉をひそめて、「……自分のことなのに、気持ちがはっきり分からないなんて、なんだかおかしいわね」と、恥ずかしそうに笑った。そんなことないよ、とシラーも笑う。
「……実はね、わたし、もっと早く、おねえさんに言いたいことがあったの」
シラーは少しためらいがちに言葉を紡ぐ。
「わたし、おねえさんと普通のお友だちになりたかったって、言ったじゃない?」
「ええ」
「本当はね……わたし、おねえさんとお友だちになりたかったんじゃないの。……お友だちじゃなくって、家族になりたかったの」
「えっ……?」
あまりにも予想外な発言に、カシオペアはびっくりした。
「お父さんとお母さんから、わたしに血のつながったお姉ちゃんがいるって聞いたの。……でもお姉ちゃんは、みんなのために、わたしたちと離れて暮らさなきゃいけないんだっていうことも聞かされてた。それでもわたし、お姉ちゃんに会いたくて……おしゃべりしてみたかった。その人に、お姉ちゃんって言いたかった。……そのお姉ちゃんが、おねえさんのことなんだ」
カシオペアは突然の告白に、頭の整理が追いつかなかった。
「そうなの? 私があなたの、お姉さん?」
シラーはこっくり頷いた。
戸惑っている所にルシアが声をかける。
「その子、捜してた子だよね? 会えて良かったね!」
ルシアは自分のことのように喜んだ。
「ふたりは姉妹なんだね」
「そうみたい。……でも、突然すぎて、実感が湧かなくて。だって、私とシラーって、全然違う気がするもの」
その言葉にシラーも頷く。
「わたしも、おねえさんとわたしって全然似てないなって思う。わたし、おねえさんみたいに落ち着いてなくて、子どもっぽいし……」
「私は、シラーみたいに自分が感じていることを上手く伝えられない。この子みたいに明るく振舞えなくて、それが羨ましかったわ」
ふたりの話を聞きながら、ルシアは少し笑う。
「そっか。でもね……わたしはあなたたちが姉妹っていうの、なんか分かる気がするよ?」
カシオペアとシラーは不思議な様子でルシアの方を見る。
「わたしには、おじさんがいてね……お父さんと兄弟の。ふたりとも全然性格が違くて、いつも喧嘩ばっかりしてるんだ。でもね、本当は仲が良いんだよ。カシオペアとシラーも、仲良しなんでしょ? なら別に、性格が似てなくても、それが姉妹じゃないなんて理由にならないんじゃない? ……それに」
「それに?」
ふたりが同時に尋ねるのを聞いて、ルシアはやっぱり笑った。
「……ほら、今の、そういう所。やっぱり姉妹なんだなって思うよ。息ぴったり」
カシオペアとシラーは驚くように顔を見合わせて、照れるようにふたりとも笑った。その時のふたりの顔はお互い、相手にそっくりだった。三人はひとしきり笑いあう。優しい風が吹いていた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃんは、みんなからカシオペアって呼ばれてたけど、それはお母さんがつけた名前じゃないの。……わたし、知ってるんだ。お姉ちゃんの、本当の名前。……シェダルっていうんだよ」
「シェダル……」
シェダル。カシオペアは繰り返し呟く。カシオペアは自分自身が身も心も軽くなったのを感じた。自分に自分だけの名前が与えられることによって、「カシオペア」という、役に縛られた者ではなく、普通の人間の「シェダル」として居ていいのだということを、少し実感できたような気がした。
「シェダルお姉ちゃん、いこう。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんが来るのを待ってるよ」
シラーが差し出す手を、シェダルは強く握る。彼女はルシアの方を見て微笑んだ。
「ありがとうルシア。……さよなら」
「バイバイ、シェダル」
ルシアが手を振ると、穏やかな風がふたりを乗せて舞い上がる。
ふたりの魂は、遠い星空の向こう側へと、旅立っていった。

主を見守る役割を終えた椅子は、月光に照らされて、静かに自分が滅びる時を、待ち続けている。

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『gentian』 作:コルカロリ

椅子の上には一冊のノートがある。

――――Busby’s chairを知っているだろうか。座ったものは殺人者の霊に呪い殺されるという伝説の椅子。まさしくこの椅子はそうだ。実物は……写真で見たぐらいのものだが。私は生憎座ってしまった。どうやらゲームオーバーだ。敗者となってからこの部屋のルールに気がついた。もう挑戦者でないから隠す必要もないということか。私はこうして死が確定してしまったから、せめて後の者が続かないよう警告しよう。しかし、私もだが、ノートを見――――る事には、いやあ、素晴らしいものだったね。色々見てきたんだよねえ。赤色。火山の噴火は凄かったなあ。青色。住んでたところは電柱でごちゃごちゃしてたから、ド田舎で見た青空はとっても広かった。黄色。一面の菜の花畑。菜の花の匂いってなんであんなに鼻に付くんだろ。で、今はこんなびっくりするほど真っ白な部屋にいる。いやあ、この人生、色とりどりであっぱれだよ。さて、もう少し考え――――たってしょうがない。涙を拭かなくては。待っている人が居るんだ。約束をしたんだよ。小指と小指を絡ませたくらいのほんの口約束だけど。場所の名前は知らないけど行き方は知ってる。幼いころはそんな場所をたくさん知ってた。そのうちの一つ……あそこで、あの子が待っているだろう。そのためにも、フィルムを切り裂く。しかし、いつまでもあの子があの場所に居るだろうか?いっそ、戻ろうとしなければ、あの子がずっとあの場所に居ると思い続ける事ができる。そんな箱に詰めた猫――――みたいな場所。あー、引きこもっていたからよく遊んでたな。部屋の隅っことか、椅子の裏とか、ノートの最後のページとかに鍵があったりするんだよなー。例えば椅子の上に乗って天井の板を外したりして……なんて。座ったらダメみたいだし、乗るのもちょっとやめておこう。それにしても何もないなあ。あるものを探そう。椅子、ノート、空気、蛍光灯、ところで、この文――――に、せめてもの悪あがきだ。俺は本当に負け犬だ。生まれ方から間違えてしまったんだ。全部母親のせいだって言いたい。だが、そう言うと『人のせいにばかりしている』と怒られる。そんな俺は、子供の頃から異性と関わることはなく、青春時代ですらも男子校で過ごした。何も浮いた話すらなく大人になり、大人になれば少しは出会いが増えるだろうと思っていた。だが、それも無かった。ひたすらに寂しい人生だ。友達とも最近連絡していない。いつでも連絡出来ると思うとなかなかしなかった。他の人と喋ることすらも殆ど無くなっていた。このままダラダラ生き続けていても、と思っていた。生きていることに意味は無いと思っていた。そんな俺は、すっかりこの椅子に座ってしまったんだ。諦めは……ついていない。とはいえ後悔したってもう遅い。決してこの人生は無意味だったなんて思いたくない。せめてせめてせめて、このノートに、俺が生きたって遺――――言、静寂、空白、雑音、雑音、雑音……煩い。は、は、は、は、呼吸音。息を止める。息の吸い方。無意識、違和感、恐怖……とととと、と、と、と、……こんなにも自分は音で溢れている。埋まれ埋まれ。虚無を身体で塞いで漏らしてはやらない。カーテンを鍵盤に巻きつけて、半分の色しか分からなくなってしまいたい。そうして傷をつけて、神様に祈る。贖罪、公開、頭を垂らせ。彼岸に、波の端に――――答えを見つけたって、私の人生はどうせ間違っていたのだから、ここで終わりにしたいと思う。未練があるとすれば……それでも、さしたることじゃない。もしも……もしも届くのであれば、私の好きな花が私の遺骸の傍に添えられることがあればと思う。私の誕生花。私が生まれた日にある意味がその花であった。だから、その花が私の生きた意味となる。それさえも叶えば、この胸にある細やかな未練も露のように落ち――――着いたのかと思ってドアを開けた。私が招かれたのか。ああ、マスター?私はお酒を飲むことが出来ないから、紅茶をお願いします。真面目に取り繕っているから、如何にもファッショナブルな本格モノを好むように見られるのだけど、実はとてもフレーバーティが好きなんです。余計なことでしょうか?小さい頃から好きだったもので、今では日常的に嗜むクセがついているのです。林檎の紅茶はありますか?ええ、こちらにありますよ。それはコーヒーシュガーで、陽炎をそのまま薄めることなく揺らがせるだなんてとてもロマンチックで。もう少ししたら花が開きますから、絹で絞って、意味をもたせます。最後にフィルムを切り裂く。目の前には――――座ったら死が確定する椅子。これがかの有名な椅子であるとは限らない。不可解なものに似た現象を与えて形に納めたにすぎない。或いは、伝聞の吹き溜まりがここに椅子として成し得たのか。すべて、すべて大した問題――――になってしまった。これにはどういう訳もなく、逃げ続けてきた結果の袋小路なのだろうと思う。不条理に耐えた。耐えて耐えていつか報われると未来を信じていた。どうにもならなければ逃げてきた。どうやら勘定からも目を背けていたからこその結末らしい。ああ、もう、だけど、泣いて――――フィルムを切り裂く。――――そう言うのはあなただったのね、と彼女は言った。そう、僕は堕ちてしまった。かつては創造主である彼女の為に生きていたのに。やっと思い出した。思い出してしまった。彼女から背いてしまったという痛ましい記憶を忘れていようと思っていた。彼女はあまりにも無垢であった。彼女はとても純白で見えなくなってしまいそうだったから漆黒の僕が全て汚いものを受け入れていた。汚い感情のひとつに愛というものがあったがために、心が掻き毟られるような痛みに苛まれた。もう僕なんて居なくなってしまおう。そう思った。しかし、この汚物はあまりにも重くて、重くて、彼女から離れてしまえばしまうほど、強く強く心を渇かした。ああ、でも、これはいけないことだった。なにせ――――フライパンに油を引いて、油が熱されたらもやしと白菜と人参とエノキとピーマンを炒める。しんなりしてきたら豚肉を入れて、また炒める。火が通ったら、塩と胡椒で味を整えて、醤油を入れる。焼肉のタレを入れても美味しい。そしてうまい具合に絡めて、仕上げにバターを入れる。インスタントのお吸い物をお湯で溶き、炊きたての白米と一緒に食べる。そしてフィルムを切り裂く。―――――フィルムを切り裂く。―――――フィルムを切り裂く。フィルムを切り裂く。フィルムを切り裂く。違うのか?この文章をたくさん見かけるから書いてみたのに何も起こらない。何故だ?ここから出たい。ここから出たい。出て――――来るのは、馬車。私はいつの間にかその席の一つに座り、流れる景色を見る。これは何処に向かうのかい。向かいの席に座る少年に言った。そのうち辿り着くよ。何処にだい。僕の行く場所よりは、もう少し手前に。君の目的地はそんなに遠いのかい。それはいつも近くにあったよ。……君は幸せだったかい。幸せじゃなかったから、あなたはその場所で、どうか僕のことを思い出してください。君の名前も知らないのに。だから、幸せになってください。そうだね……そしてこの部屋に辿り着いた……だから、フィルムを切り裂く。――――

椅子の上には一冊のノートがある。
なるほど、ここにご丁寧なことに椅子がある。まずは椅子に腰掛けて、それからノートを開いてみようとすると、既にその時点で手遅れとなっている訳だ。
椅子に座ってしまえば死は確定する。
何故ここはそんな不条理が許される場所であるか?
それほどまでに命をかけるべき場所であるか?
そうしてこの場所では、たくさんの思念が飛び交ったのか?
ここは殺風景な部屋。白い壁と白い床、色のない椅子と無地のノートを除いては、何もない。そこに自分の体がある。
『白の不安の中で赤を求める。自分の身体を傷つけさえすれば』
なんて言葉を思い出すような不安定な気持ち。
椅子という明らかな人工物があるにもかかわらず、人が生活しているような心地のしない場所。
椅子はまるで死を孕んでいる様な予感がして、座ろうという気がしなかった。おかげで自分は死なずに済んでいる。
どうやって入ってきたのか……おそらく夢の入り口と同じ。
先人たちの書き残し……それは意思の吹き溜まりか。
集合的無意識……使い勝手の良すぎるまでに陳腐な言葉。
まるで下手くそな作り話のような事象だと、推測する。
この部屋はすなわち集合的無意識が形となった場所。
ここにやって来た人たちは、命をかけてでも人生に救いが欲しかった人たち。
落ちぶれて落ちぶれて、絶望の淵、最後まで藁にすがろうと思った人たちが来る。
そしてここには救われるための答えがあるということ。
そんな都合の良い言葉ばかりの、安直な物語のような部屋に閉じ込められて、とても滑稽だ。
果たして、姉はこの部屋から出るための答えを見つけることが出来たのか?
そうじゃない。姉は死んだ。
如何にして姉は命を落としたのか。
姉だけがこの自分の人生での唯一の救いだった。
自分は姉の面影を求め、姉の幻影を引き摺り続けた。姉なしに歩むことなんて出来なかった。
そしてついにこの部屋にたどり着いてしまった。落ちるまで落ちた結果だ。
どうせほとんどいらないこんな命だ。それでも、細やかな未練があるのだから賭けてやろうという気になった。そして露のように落ちてしまってもいい。
そんな場所なのだから椅子に座れば死んでしまうなんて言う不条理もまかり通る。
それだけじゃない。答えを探さずにひたすらに部屋からの脱出を願うこと。それもまた敗北の条件。
もし答えを見つけられないままドアを開けようものなら、そのまま現実で目覚めることなく死後の世界に落ちることだろう。
残されたノートは出るための手がかりか、負けの確定した人たちの本当の本当の最後のあがきでもあったか。
然るべきページに書ききったはずであったノートの文章は他の人の文章と混ざり合ってしまって、全文を読むことは叶わない。
まるで一人の人間の記憶みたいだ。落ちた言葉は、まるで忘却したかのよう。
何故ここにそんなノートがあるか。いや、ノートがあるから、言葉を遺したかった?
誰かが自分の人生をノートに書くことが、後に来る人にとってのヒントにはならないとして、しかし無意味であるか?
その無意味な文章は確かに誰かの人生だったのだ。自身の人生とはそんな無意味なものであったか?
姉は度々、己の人生の意味に願いをかけていた。そしてある日、眠るように逝った。仮にこの部屋で敗北してそのまま身体も死んだというのであれば、何もおかしくはない。
もし姉がここに来たのであれば、自分がここに来たという理由も分かる。自分がこの場所に来ることを願ったのだ。
ああ、でも間違いじゃなかった、姉の人生も、自分の人生も。ここに流れ着いたことも。一つも間違いじゃなかった。
何故この部屋の意味に気がついたか。ここが集合的無意識の場所だと気がついたか。
それは自分が既に答えを得ていたからだった。
この部屋は自分にとってもう意味のないもので、部屋もいつまでも謎を掛け続ける必要も無い。
ただこの部屋の意味は訪れた者自身の答えを見つけるためのもの。部屋の謎を解き明かすような大掛かりな意味はいらない。
この後は何をするべきか。それも、もう分かっている。
ノートを開く。自分に割り振られた白紙のページに、一文を加える。

《フィルムを切り裂く。》
背後。ドアが、ひとりでに開く音が聞こえた。

(こうして人影は部屋の中から消え失せ、ただ一言、合言葉を書かれただけの寂しいページに、まるで誰かが書き残したかのように、文字が浮かび上がった)

――――白い壁と白い床、色のない椅子と無地のノートを除いては、何もない。そこに自分の体がある。
『白の不安の中で赤を求める。自分の身体を傷つけさえすれば』
なんて言葉を思い出すような不安定な気持ち。
姉にとっては、自分もまた、傷を与えるような存在だったのだろうか。
自分にとって姉は救いだった。でも、姉にとって自分は救いでなかった……だから姉は死んだ。
それでも、もしも……もしも姉の書き遺しがあればと思った。
自分は、ただ……

僕は、ただ……姉の今際の願いを知りたかった――――
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『存在』 作:白川湊太郎

通された部屋はとてもシンプルな造りだった。壁も床も白色の大理石であり、革靴で歩くと部屋中にカツカツと硬い音が響いた。一人の人間がくつろぐには十分な広さだ。部屋の真ん中に大きなテーブルが、部屋の右側には四つの本棚が置かれている。私は今日一日ここで過ごすように言われていた。
本のジャンルは右端の本棚二つが小説で、その隣がビジネス書、左端が雑誌など。小説や雑誌のジャンルは様々であったが、陳列されたそれらの本は私の趣味に合わせてくれているのか、趣味が読書と言いながらも同じ作家や雑誌ばかりを読む私の本棚とかなり似ていた。だからだろうか、本棚にある全ての本がその背表紙から読んでもらいたいという意思表示をしているような気がしており、対して私はその期待にできるだけ応えようと考えてなるべく多くの本を直接手に取って、題名やあらすじだけでなく表紙のイラストなどからも自分が最も読みたい本はどれか、自分が最も読むべき本はどれかを感じ取ろうとした。といっても本棚の最上列は簡単に手が届かないためとりあえず眺めるだけにする。自分の身長よりも高い本棚など大きな本屋でしか見たことがなかったし、本の背表紙を確認するだけで大変だった。
順番に眺めていくと、私の最も好きな作家の本も多く並んでいることに気が付いた。彼女(作者名から判断しているが授賞式などにも顔を見せたことがないので女性かどうかは不明である)の作品には恋愛を題材にするものが多かった。私にはほとんど恋愛の経験がなく、世の中の恋愛がどんなものであるかは、彼女の小説から学ぶことが多かった。小説は右から二番目の本棚の最上列に並べられていた。どの本が並べられているか確認すると、その作家の中でも聞いたことのない題名の本を見つけた。興味を持って内容を確認しようとするが、本は比較的大柄な私が必死に腕を伸ばしてなんとか届く高さにあった。少しでも高さを稼ごうとつまさき立ちをする。本棚に足をかけて踏み台として使用することは考えなかった。私にとって本棚を踏むということは本を踏むことと同意義であり、多くの知識を受け取っている本を、偉大な先人を大変侮辱する行為であると思っていたからだ。ふくらはぎが攣りそうになりながらも、なんとか本を取り出した。『だったもの』という題名のその文庫本。私は部屋を見渡して、仕方なく立ったまま読み始めた。
女性が幾多の恋愛を繰り返し、その度に幼馴染の男友達に相談したり愚痴を言ったりしていたが、あるときその男友達が国外に行ってしまうことになる。自分の元からいなくなることを経験して初めて、その相手がどれだけ大事な人であったが気が付くことになる…といったあらすじだった。気が付くと私は一時間以上も読書をしていた。すでに三百ページのうち半分近くは読み進めていた。今までの彼女が書いた小説は官能的であったり暴力的であったりと刺激的なものが多かったが、今回は物語が淡々と進んでいくもので、これはこれで新鮮に感じられた。
一度小説の世界から離れたためか自分の腰がとても重く感じられた。それでも私は読書を続けようと試みる。途中で身体を反らせたり捻ったりして様々な方向に動かしながら読み進めていくが腰の重さはなかなか変わらなかった。
ガチャ、と扉の開く音で読書の時間は終わった。腰の重さに気がついてから更に一時間立ったまま読書をしていたが、なかなか集中して読むことができずページはほとんど進まなかった。
「お食事の時間です」
タキシードを着た老人がカートに食事を載せて運んできた。この老人はたしか私をこの部屋に案内してくれた人物だった。
「前菜は野菜の三色テリーヌでございます」と教えてくれたが、テリーヌが何であるか私にはわからなかった。テーブルに白くて大きな皿が置かれ、その真ん中にはオレンジ、白、緑の板状の物体が重なり合っている。大きな皿に小さく料理が置かれていると上品に見えるが、どこか物足りなさも感じる。もしかしたらこの大きく空いたスペースには、何か別の料理も用意されていたのではないかと想像してしまう。無を意識することで自然と有が連想されるのだ。
老人はテーブルの端にナイフやフォークを並べていった。私は料理の邪魔にならない場所に読みかけの本を置きながら「ありがとうございます」と頭を下げる。そんな私を一瞥してすぐに老人は部屋を出て行った。
立つことに疲れてしまっていた。普段のデスクワークでも座り続けると腰痛や肩凝りになっていた。もっとお腹やお尻周りに筋肉があれば、腰の痛みを感じることのないまま一冊の本を読み終えていたかもしれない。こんなに長時間立ったままで読書することになるなら、ジムにでも通ってお尻の筋肉を鍛えておけば良かったと少しだけ思った。
料理の前に立った。テーブルには老人がテリーヌと呼んでいた食べ物が置かれている。この三色の板状の物体は食べられるらしい。サラダに彩りを加える目的で赤いトマトなどが入れられることはよく見かけるが、このテリーヌという食べ物はオレンジ、白、緑の三色が均等であり、オレンジがアクセントというわけではなさそうだった。
私はナイフとフォークを手に取った。さて、どうやって食べようかと考える。とりあえず立て膝になりテーブルの前に立つが、肋骨の高さにテーブルがきてしまう。無理して両手を挙げて食べようと試みるが、肩をすくめるような姿勢となって肩が凝ってしまいそうだった。
いっそのことマナーなど無視して食べようと考え皿を床に置いた。大理石で造られた床はとても硬く、慎重に置かないと簡単に割れてしまいそうだった。白い皿は白い床に同化して、なんだか床に置かれた料理を食べようとしているみたいに思えた。大理石の上で胡坐をかいて食べようとしたが、胡坐の状態では重心を前に持っていくことが難しかったためすぐさま正座に変えた。
正座で背筋を伸ばしていると、なぜだか床でフランス料理を食べることすらも、正しいマナーであるかのように思えた。硬い大理石の床で正座をしていると、膝と足首に上半身分の体重が乗せられて痛くなった。屈んで目の前に置かれたテリーヌを食べる分だけ切って、背筋を伸ばした状態で口に入れる。その動作をするたびに前後の体重移動が行われ、膝と足首が交互に圧迫されてさらに痛みを感じた。
ノックの音と共に再び老人が入ってきたが、立て膝にしたり皿を床に移動させたりしていたためテリーヌは半分しか食べられていなかった。
「スープをお持ちしました」
老人は床で正座しながらテリーヌを切り分ける私を一瞥した。ほんの数秒であったが老人と目が合った。私は床に座っていることもあって見下されているような気がしてしまい咄嗟に背筋を伸ばしたが目線に大きな変化はなかった。
「あ、ありがとうございます」
老人は部屋の奥へと進んでいき、先程テリーヌが置かれていた場所よりも中央近くにスープの皿を置いていった。わざわざテーブルの中央に置いたのは、誤って落とさないようにするためか、それとも立て膝では食べるなと伝えたかったのか、二択のうちのどちらかだろう。
私が運ばれてきたスープを早く飲もうと思い、ナイフとフォークを忙しなく動かしていると、去り際に老人が呟いた。
「もしスープも床で召し上がることになりますと、なんだか飼い猫みたいに見えますねえ」
彼が扉の方を向いていたためどのような表情をしていたか見えなかったが、その口調と軽く握られた左手を口元に持っていく様子からは床でテリーヌを食べる私を嘲笑していることは容易に推測ができた。仕方なく私は床に置かれた皿をテーブルの上に戻して残りを食べた。
その後も料理は続いたが、スープ、魚料理、肉料理、デザート、紅茶とそれら全てをテーブルに置いたまま食べることにした。立て膝は上手くいかなかったため立って食べることにしたのだが、これも高さが合わないため苦しかった。スープを飲むときには屈んだ姿勢を保ったままスプーンで掬って飲んでみたがとても腰に負担がかかる。先程まで二時間立ったまま読書をしていた影響も大きくあるだろう。私はスープの皿を持ち上げて胸の辺りまで近づけ、腰に無理のない程度にスプーンで掬ってスープを飲み続けた。マナーなど気にしていられなかった。魚料理を運んでくる老人にその姿を見られたが、特に良いとも悪いとも言わず表情一つ変えないまま料理を置いて部屋を出て行った。
スープはまだ良い方で、面倒なのは肉料理だった。鹿肉を赤ワインで煮込んだ料理であったが、この鹿肉を中腰のまま一口分に切って、身体を起こして食べて、さらに中腰のまま一口分に切って、身体を起こして食べてを繰り返すこととなった。その行為自体は魚料理でも同じであったが肉料理の方がより切りにくく、無意識のうちに屈んだ姿勢で力んでしまい腰の痛みは更に強くなった。これがもし数百グラムあるような厚いステーキだったら余計に切りにくかっただろう、考えるだけで恐ろしくなった。
どの料理も美味しかったが、食べるときの姿勢や腰の痛みなど普段の食事では考える必要のない余計なことが多くて、あまり味わうことができなかった。
紅茶を飲み終えると眠気が襲ってきた。読書に戻る前に少しだけ眠ろうと考えてしゃがみ込み、壁に背中を預けてみたがすぐに離れた。大理石で造られた壁はとても硬く、背骨や肋骨が圧迫されて痛かったので寄りかかることもできない。そのため私は上向きで眠ってみようと試みた。足を伸ばして寝転がると腰に痛みが走ったが、膝を曲げると座って眠るよりも楽だった。しかし硬い床と接触する後頭部が痛んだ。私は少しでもその痛みを和らげようとして、両手を頭の後ろで組み、後頭部を守ることにした。頭部の重さと床の硬さに挟まれた私の手はこの状況にどれだけの時間耐えることができるだろうか。

もしこの部屋に椅子があれば、より早く本を読み進めることができただろう。
もしこの部屋に椅子があれば、食事中の姿勢に迷うことはなかっただろう。皿も床に置かなかっただろう。老人に「飼い猫みたい」などと嘲笑にされることもなかっただろう。肉料理も切りやすかっただろう。余計なことに気を使うことなく、味わって料理を食べることができただろう。
もしこの部屋に椅子があれば、もう少し楽に眠ることができただろう。
そんな風に私は椅子のある部屋を想像しながら静かに眼を閉じた。

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『椅子取りゲーム』 作:いとうのぶき

「――その椅子、譲りますよ」
と男は言った。
一体どういうつもりだ……? 訝る俺をよそに、男はジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点けていく。
これは椅子取りゲーム。俺に椅子を譲ったらゲームが成り立たない。そんな事は百も承知だろうに……。肺の中一杯に吸い込んだ煙を男が吐き出すと、紫煙は瞬く間に室内に充満し、視界を白く濁らせた。空調のないこの密室では煙も行き場がない。煙草を吸わない俺には不快極まりなかった。いや、これも相手の心理的な揺さぶりだろうか?
「どうしました?」
再び男が言う。
「その椅子に座れば、10億はあなたのもの。ためらう必要はないでしょう。私の気が変わらないうちに、さぁどうぞ?」
確かにそうだ。俺はその10億を手に入れるために、今まで命がけのゲームをいくつもクリアしてきた。命がけ、というのは比喩ではない。脱落した敗者に待っているのは、死。そういうゲームなのだ。現に俺は何人もの対戦相手を蹴落とし、そいつらを死に追いやってきた。生きるか死ぬか。弱い者は喰いものにされ、強い者だけが勝ち残る。弱肉強食こそがこの企画のルールだった。
「ああ、なるほど」
男は煙草を指で挟み、合点がいった様子で俺に笑みを浮かべてきた。黒いサングラスのために表情は読めない。本当に笑っているのかどうかは怪しいものだ。
「なぜ10億もの大金をみすみす譲るのか、疑っているんですね。罠ではないのかと」
最終ゲームに勝ち残った俺は、最後のゲーム『椅子取りゲーム』の会場としてこの部屋に連れてこられた。ずっと目隠しとヘッドフォンを付けさせられていたのでよくは分からないが、わざわざこのゲームのために用意された部屋である事は間違いないだろう。
部屋には窓一つなく、それどころか空調も照明設備さえ無かった。壁に設けられた複数の松明と、埋め込まれた無数のカメラだけが目に映る。出入り口のドアは厳重にロックされているようだった。俺を連れてきた男が俺の目隠しとヘッドフォンを取り、部屋の外に立ち去った時、既に目の前にはこの椅子とあの男がいたのだ。恐らく俺と同じように連れてこられたに違いない。他に対戦相手の姿は無かった。
「同じですよ、私も」
そう言って男が、壁のカメラの一つを二本の指で指し示す。指と指の隙間に挟まれた煙草が静かに燻った。
「――裏動画サイト。最近じゃ、殺しや放火程度の過激動画では閲覧者も満足しなくてね。一つ、動画サイトの管理人自身が、動画サイトの企画に参加してみたら面白いんじゃないかと。それが私の目的なんですよ」
ラジオだのテレビだのが人々の娯楽を担っていた時代は既に遠い昔の話だ。今やネット一つで自由に閲覧できる動画サイトが、娯楽やニュースの主流となっている。多くの動画サイトの管理人が、様々なコンテンツをアップし、閲覧者の数が増えれば増えるほど広告収入が懐に入ってくる仕組みだった。有名どころの動画サイトの管理人ともなると、年収が数億から数十億に上ることも珍しくない。
さらに近年では、非合法な映像を扱う裏動画サイトなどというものまで出てくる始末だ。こっちはそれこそ、殺人・放火・レイプ・拷問、何でもありの過激な映像が氾濫している。もちろん警察も摘発に躍起になっているが、動画サイトの管理人たちの方が一枚も二枚も上手だった。マフィアや外国の情報機関までもが運営に一枚噛んでいるなんて噂もあるくらいだ。
そんな中で生まれた、裏動画サイトの人気コンテンツ。
それが、負ければ死亡の過酷な殺人ゲームを行い、その様子を逐一中継するという企画だった。最後の一人に勝ち残れば10億もの大金が手に入る。という事は、管理人にはそれ以上の金が入ってくる仕組みになっているのだろう。どういう金の流れかは知らないが、それこそマフィアや情報機関が絡んでいてもおかしくなかった。
まぁいい。
そんな事はどうでもいいのだ。
俺にとって肝心な事は、この部屋の中にいるあの男……最後の対戦相手を蹴落とし、10億を手に入れる事だった。そのためなら何だってやってやる。たとえ人殺しだって……。
俺が一瞬、近くにある松明に視線をやったからだろう。男が小さく笑みを漏らした。
「やめましょうよ。松明に飛びついて武器にするつもりですか? 10億もの大金がかかった最後のゲームで、そんな力ずくの殴り合いを見たがる閲覧者がいると思います?」
元より、松明の位置はかなり高く、武器として利用することは不可能だった。ゲームに参加する際にボディチェックは受けているから、お互い武器になるようなものは持ち合わせていないはずだ。
「閲覧者が見たいのは、もっと高度な頭脳戦や心理戦でしょう」
なるほど、それで「椅子を譲る」なんてブラフを仕掛けてきたのか。食えない男だ。奴は最後に目一杯吸い込んだ紫煙を吐き出すと、短くなった煙草を足元に捨て、革靴で踏みつけて火を消した。くそ、慣れない煙草の煙のために頭がクラクラしてくる。思うように頭が働かない。ボディチェックの時に煙草も没収すべきだろうに……運営は何をやってるんだ?
焦る気持ちを抑え、必死に思考をフル回転させる。考えろ。考えるんだ。10億はもう目の前にぶら下がっている。こんな所で負けてたまるか。
もしも……。
そこで俺はある一つの可能性に思い至る。
もしも、これが罠だとすると、椅子に座る事自体が危険なのかもしれない。俺は二人の間に置かれた椅子に目をやった。どこにでもある、普通の木製の椅子だ。古びたアンティーク調だが、無駄に豪華な装飾があるでもなし、柔らかそうなクッションが備わっているでもなし……ごくごく普通の、ただの椅子である。
だが今までのゲームは全て、敗者はほぼ確実に死に至るような危険なゲームばかりだった。当然だ。その命がけのゲームに身体を張り、死に物狂いで10億を得ようともがく俺たちの醜態を、安全地帯から高みの見物と洒落込むのがウケているのだから。ゲームが過激であれば過激であるほど、閲覧者は増え、管理人の収入もアップする。
だとするなら、やはりあの椅子はただの椅子ではない。
俺はそう確信した。
アンティーク調に見せかけて、何か仕掛けがあるのかもしれない。電気椅子になっているのか? 座ると毒針でも出てくるのか? 或いは座った瞬間に頭上からギロチンでも降ってくるのか? 見たところ、馬の尾の毛で吊るされたダモクレスの剣は無さそうだったが、しかしこの部屋は椅子取りゲームの為だけに用意された部屋だ。椅子だけでなく部屋自体にどんな仕掛けがあっても不思議ではなかった。
「ずいぶん、疑り深いんですね。早く決断しないと、どうなっても知りませんよ?」
男が初めてサングラスを取った。ハンカチでレンズの汚れを拭き取っていく。俺は思わず息を呑んだ。男の左目が、大きな古傷で完全に潰されていたからだ。
「ああ、この傷ですか? 昔マフィアの抗争に巻き込まれて……なんて言ったら格好いいんでしょうが、どうという事はありません。山に登った時に落石事故に遭っただけですよ。それ以来、山は控えるようにしています。キリマンジャロ程度の高山なら今でも時々挑戦していますが、さすがにこの傷で無理は禁物ですからね」
くそ、俺としたことが……好き放題に感情を読まれるなんて。完全に相手のペースに乗せられていた。煙草の煙のせいか? さっきから頭痛が激しい。どうりで頭の回転も鈍るわけだ。
どうする? どうすればいい? ここはやはりこっち側も、相手に椅子を譲った方がいいのか? だがもし「椅子を譲る」というこの発言自体がハッタリだとしたら?
「おや、要らないんですか、10億?」
煮え切らない俺の態度に苦笑し、男が肩をすくめる。そのまま椅子の背もたれに両手を添えた。
「なら私が頂きますよ?」
ガタガタと椅子を揺らし、奴は無造作に自分の方へと引き寄せ始めた。あっ、と俺が思わず叫ぶ。椅子に何か仕掛けがあるわけではないのか? それともこいつは勢いだけの馬鹿なのか?
俺の声に、男は動きを止めて視線を向けてきた。
「ほら、やっぱり欲しいんじゃないですか。遠慮せずにどうぞ?」
そう言って後ずさると、両方の掌を上に向けて、芝居がかったポーズで俺に着席を促してくる。
どっちだ? どっちなんだ?
この男は自分の動画サイトの閲覧数を増やすのが目的で、別に10億なんて要らないのか? それとも、奴の言葉全てが嘘で、俺を陥れるための罠なのか? ここまで勝ち残ってきたのが真実だとするなら、単なる勢いだけの馬鹿ではないはずだ。とても男の言う事を鵜呑みにはできなかった。いや勝ち残ってきたという言葉自体が嘘なのだとしたら……。
もはや俺の思考はまともに機能していなかった。緊張のあまり眩暈や吐き気さえ感じる。滝のように流れる汗を、乱暴に手で拭い去った。
「そんなに悩む事ですかね? あなたは椅子取りゲームに参加している。そして私は椅子を譲ると言っている。なら、私を信じて椅子に座ればいいだけでしょう?」
そんな単純な話のはずがない。今までのゲームで俺は数えきれないほどの人間を騙し、蹴落とし、打ち負かしてここまで這い上がってきたんだ。この期に及んで対戦相手の言う事など素直に聞き入れられるものか。
「もっとも、人を信じるという事は――」
ふと、男が視線を落とす。
「人を疑うよりも、ずっとずっと、難しい事なのですがね」
分かっているじゃないか。だから俺はこうやって悩み苦しんでいるんだ。
――だが、なぜだろう?
男の口調はどこか、憂いを帯びていて、とても暗く沈んでいた。こいつの目的は……いったい……何……なんだ……?
「……そろそろ、時間切れですかね」
男がそう言うのと、俺の膝が崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。何……だ? 急に足に力が……入らなくな……って……?
床に跪くや否や、俺はそのまま俯せにくずおれてしまう。何故……だ? 力が……全く……入ら……な……? ま……さか……薬か……何か……。
「薬なんて使ってませんよ」
俺の思考を読んだかのように、男は冷然と言い放った。
「ヒントは目の前に転がっていたんですがね? 分かりませんか? 窓も無ければ空調も無いこの密室。煙草の煙が瞬く間に充満する小部屋で、出入り口も厳重にロックされているというのに、壁には無数の松明が掲げられている。あなたがここに来る前から、松明に火は灯されていたんですよ? 密室で炎を焚き続ければどうなるか……子供でも分かります」
男の声を、俺はどこか遠い所から聞いている感覚だった。思考が上手く働かない。頭痛や眩暈は激しくなる一方で、そのくせ身体は思うように動かなかった。
「火が燃えるには酸素が要る。我々人間が呼吸するにも酸素が要る。つまり、そういう事ですよ」
男は悠然と椅子の前に歩を進め、何のためらいもなく腰を落とした。もちろん、座ったからと言って何か罠が発動するわけでもない。足を組み、奴は再び内ポケットから煙草を取り出した。
「私は自分が『椅子取りゲーム』の参加者だとは一言も言ってません。私は主催者ですからね。そう、私がこの企画を立案した、この動画サイトの管理人なんです。私の言葉に惑わされる事なく、この椅子に座る事ができるかどうか。それが『椅子取りゲーム』の内容だったのですが……残念でした」
俺は最後の力を振り絞って片手を掲げ、懸命に男の足にしがみついた。だがそこまでだ。酸欠なのか一酸化炭素中毒なのか、何だか知らないが、とにかく俺はもう昏睡寸前で、精神も身体も全く正常に機能していなかった。椅子を奪い返す力など残っているはずもない。
「煙草はハンデのつもりだったんですが、逆効果だったかもしれませんね。失礼しました。キリマンジャロの高地順化がこれほど上手くいくとは思いませんでしたので」
もはや男が何を言っているのか、正確に理解する事さえ難しかった。必死の形相で見上げる。
男はそんな俺を見下すでもなく、蹴飛ばすでもなく、ただ悠然と、煙草に火を点けるだけだった。もう一度ポケットに手を入れ、小さなリモコンを取り出す。奴がボタンを押すと、出入り口のロックは電子音と共に呆気なく解除された。
「人を信じるという事は、人を疑うよりも、ずっとずっと難しい。だからこそ、それを見せてくれたら――」
最後に俺が見た光景。
それは、どこか物憂げな瞳で紫煙を吐き出す、男の表情だった。
「10億を払う価値は、十分あると思ったんですがね」

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『独夜が明けるまで』 作:澄夜 明

私の家に、強盗がいたのだ。
訂正しておくが、現在進行形の話ではない。帰ってきて早々に強盗と対面した訳でもなく、自室で留守番をしていた時に突然ドアが開いたかと思えば、複数人の覆面がこちらに向かってきたのである。
全身が凍りつくような恐怖から始まり、現在に至るまでの話といえば簡素なもので、何より実感がない。殺されるかもしれない最悪の予感は杞憂に終わったが、数人がかりで羽交い絞めにされた私の体は、なす術もなく縄で椅子に縛られた。女子中学生の私を圧倒するほどの力は一人でも十分な大人の男達のもので、適わないと早々に諦めてしまう、運命ごと任せることしかできない。
抵抗のなさが幸をもたらしたのか、覆面の男達は私を放置して物を漁り出した。怪しい恰好のままクローゼットを開けて物色し、片づけもせずに次へ向かう。非現実的だと思いたい光景を最初はただ眺めていだが、事が終わるのを待つだけというのも落ち着かないもので、少しなら、少しずつなら試してみてもいいかもしれないと、私は縄抜けを試み出した。乱暴に固定されていたが無理ではなかった、時間をかけると少し緩んだ。
だが、ここで覆面の一人に気づかれてしまい、息をする間もなく頭を殴られる。椅子ごと傾き、更に床へ叩きつけられた所で、二重の衝撃に耐えきれず気を失ってしまう。
最後に見えたのは、窓の外の夕景すら薄暗い雲に覆われている様だった。

恐らく未だに続いているのだろう、一体私をどこに運んだのかは分からない。
目を開けると、あらゆる壊れた学習椅子が積み上がり、視界どころか部屋まで埋め尽くしていた。視線を大きく一回りさせてみると、教室ですらない、何処かの倉庫ということが理解できる。唯一の小窓から覗く窓の外は暗く、黒く、僅かに零れる明かりだけが頼りだった。己の椅子を少し動かすと埃が舞い、咳きこんでしまう。
私は未だ椅子に縛られている。どうしようか、と考えていると声が聞こえてきた。
「そんなに悩まなくても、私の仲間になったら寂しくないのに」
単純に驚いた、目を瞬かせてしまう。
「……わあ」
「わあって、もっと驚いてくれても良かったのに」
「驚いてはいるけど、こうも現実味のないことが続くと……ねえ、君」
いつの間にかいた『彼女』をまじまじと見つめる。ショートカットの黒髪を漂わせ、闇に同化しかけているセーラー服を揺らし、胸元から椅子に血を垂れ流して笑う半透明な姿は、同年代のものに見えた。
「幽霊?」
「正解、もう死んでいるの! ね、あたしユウコ、貴方は?」
その割にははっきりとした声で、普通の人間のように可愛く笑っている。
「私はシキノ」
「素敵な名前! シキノ、貴方どうして此処に?」
「強盗に、襲われて……」
家から移動させられたということは、今度は人質だろうか。犯人は身代金を要求しているのかもしれない、と視線が下がると、ユウコの消えている足が目についた。ユウコは私の視線など気にせず、あっけらかんと続ける。
「あらら、不幸ね。あたしは悲惨だった、結果的に皆で死んじゃって」
思わず耳を疑った。
「……、え?」
「不思議そうね、そうよね、知りたい?」
聞いてはいけない、触れてはいけないことではないかとためらったが、一切の重みのないユウコの笑顔を見ると好奇心が勝ってしまった、私は素直に頷く。
「うんうん、あのね、クラスのみーんなでたった一人をいじめていたの! よってたかってかっこ悪いったらありゃしない」
直感を信じるべきだったかと後悔し始めていると、ユウコは目を細めて意味ありげに笑った。
「だからね、報いを受けたの。最後はたった一人に負けて、皆殺されちゃいました」
まさか、と悪い予感につられて周囲の椅子を確認してしまう。僅かな明かりに照らされたものは、よく見ると乾いた血がこびりついていた。恐ろしい場所に来てしまったと頭が警鐘を鳴らして、なのに、私は浮かんだ疑問を口にしてしまう。
「そのたった一人は、殺して、……どうしたの?」
ユウコはやはり、何てことのないように告げる。
「最後に自殺して終わり。自分の席で、大量に持ち出していたカッターを使ってね。今思うと、心中なんて最悪なことしなければよかったのに」
呆れたように両手を上げ、どこか悪い笑みを浮かべて私の様子を伺ってくる。彼女が紛れもない幽霊だという事実は先程の話で明確だが、それだけではない、クラス中が死を迎え、ユウコも等しくその一人ということに気づいてしまった。恐ろしい場所に私を取り残した犯人をうらんでみても終わる筈がなく、震え、指先から冷たくなる。
椅子の一部が崩れ落ちた音で我に返ると、ユウコは楽しそうに追い打ちをかけてきた。
「でね、血まみれになった教室はもちろん掃除が入って、机は先に片づけられて、椅子は全部ここに移されたの。すごいでしょ?」
すごいどころか、最悪の気分だ。
「とりあえず、仲間になりたくないことは分かった」
素直にお断りを告げると、何故かユウコは笑顔を消した。堪えるように瞼を下ろして、無表情というより拗ねているかのよう。おかしいと言いかけて、悪化させてしまうかもしれないと呑みこむ。ホラー以上のホラー話を聞かされて了承できる筈がない、というのは想像すれば分かることである。何より、私一人が増えようが増えまいが、『仲間』がクラス分いるのであれば、大差など無い筈だ。
そう思った直後に、私は自身の考えすらおかしいことに気づいた。目の前にいる少女は、初めからたった一人で笑っていたからだ。
「ねえ」
「うるさい」
私の余計な発言をユウコはかき消したが、もう穏便には済ませられそうにない。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」
「……ユウコ」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい」
ユウコの血が黒く床を汚し、床いっぱいに広がっていく。咄嗟に足をどけようとしても、今の私に動かせるものはなかった。黒い髪が大きく揺らめき、セーラー服を影が侵食し始め、やがて顔をも呑みこむ。けれど、彼女は未だ笑う、笑っている、愉しそうに、可笑しそうに、どこか悪意の響きで空間を大きく揺らすと、椅子が跳ね、私も空中に投げ出された。
「あははははははははははははははははははははははははは!」
私は今になって理解する。幽霊どころではない、ユウコは悪霊だということを。いじめられていた側の果てで、クラスの皆と心中してもユウコは独りでいたのだ。
理解した途端に耳が騒音を受け、頭と共に痛む。閉じかけた視界が捉えたのは、床を埋め尽くした黒から誰かの手が散り散りに飛び出し、助けを求めるように呻いている事実だ。ひょっとして、ユウコが殺してしまった皆ではないか。
私も同じ結末を迎えてしまうかもしれないともがくが、己の椅子から解放されることはなかった。幸いなのは空中から落下する気配が一向になく、床の惨劇に触れる事もないということだ。手が椅子ごと私を掴んで引きずりこむ光景は想像にたやすく、避けたい一心でむしろ椅子にしがみつきたくなるというもの。最悪の事態に陥る前にユウコを止めなければいけないが、止められるのは私しかいなかった。
「ユウコ、落ち着いて」
とりあえずの声かけから始めるものの、彼女は笑い声を止めない。早々に無理だと諦めたくなったが、未来も諦める羽目になると頭を振りかぶる。めげてはいけない。
「……私は仲間になってあげられないけど、友達にはなれる。ユウコ、私と友達になろう」
提案してみると、ユウコの声が止まった。見えなくなった笑顔の代わりに、怨むように見開かれた瞳孔が私を射貫く。反射的に逃げ出したくなったが、逃げ道に幸せなどないのは分かりきっていた。
「こんな状況になるまで誰も気づいてくれなくて、助けを求めても無駄だったかもしれない。自殺じゃなくて全員を殺したのは……恨みかな。でも、もういいの」
「貴方に何が分かるのよ」
地を這うような声に身がすくんだ。後ろの椅子が少し音を立てたが、空中から落ちることはない。真っ直ぐにユウコを捉えると、彼女は続けた。
「いじめられた方が悪い? いじめた方が悪い? 可哀相? そうじゃないのよ、ねえ。貴方、居場所がどこにもない恐怖を知っている? 先々で言葉の針に刺されて、暴行を受けて傷だらけになって、自分の物が壊れていって、そんな毎日から抜け出せない経験を貴方は知っているの? それとも、良くあることだって笑う? そんなことが普通なら、世の中おかしいと思うでしょ」
「……そうだけど」
「貴方、あたしに怯えているでしょ、逃げたいと思っているでしょ。だから、優しくしたくなったんでしょ! そうじゃないの! そんな友達いらない!」
癇癪を起こしたように、空間の全てが揺れた。椅子ごと体が傾き、地面の手がもがくように一層伸びてくる。今にも落とされそうな状況で尚も空中にいられたが、起き上がることは叶わず、息を呑む。次はないかもしれない。
図星ではあった、その通りだが、状況を招いたのは誰だ。ユウコだと確信を持つ頃には、私も耐えきれなくなり口を滑らせた。
「この状況は誰だって嫌になるでしょ!? ユウコは人を殺したくなるほど嫌な環境だったのかもしれないけど、私もこんな環境嫌だ! だったら、最初みたいにユウコに笑ってほしい! 私はまだ生きたいから幽霊になれない! だから、仲間も断りたい! けど、友達だったら良いっていうのは嘘じゃない! だって、私がもう気づいている、皆は最後まで気づかなかったかもしれないけど私はその皆じゃない!」
ふと、椅子も、彼女も、手も一瞬にして止まったが、私の言葉の勢いだけは抑えられないままだった。
「友達になろう、ユウコ!」
反動で息を切らして、大きな呼吸を繰り返す。
沢山の腕が沈み、床が見えるほど黒い血も引いていき、椅子がゆっくりと元の位置に戻り始めた頃にようやく事が収まったことに気がついた。ユウコの影が消え、髪も落ち着き、どうしてか哀しいものを見る目で笑いかけてくる。
「……貴方、哀れね」
あまりにも必死になってしまった事実が悪かったのかもしれないが、結果的に良かった筈だと考えていると、彼女は今までで一番可愛く顔を綻ばせて、嬉しそうにはにかむ。
「うん、友達になろ? 自分の席の椅子にとりついた悪霊でもよかったら」
ユウコの喜びを見ていたら、後悔も焦りも段々とどうでも良くなってきた。
「よろしくね」

・ ・ ・

ところで、これだけ騒いでも強盗犯は見に来ないのか。身代金要求が難航している場合もあるかもしれないがと思ったが、寝ている可能性もある。窓の外は薄暗い水色に染まり出していて、今度こそ脱出を試みても良さそうではある。
「ユウコ、この縄をほどいてほしいんだ」
信頼して言ったのに、また哀しそうな目で微笑んでくる。椅子をあれだけ浮かしておいて、触れられないと断る訳はないと思っていた。体が冷たくなっても、心臓は音を立てない。逃げたくなっても、やはり己の椅子から離れられそうになかった。
「シキノ、貴方、自分の体を見てみなさい」
嫌だ、でも、気持ちとは裏腹に視線が下りてしまう。
腰まで伸ばした私の長い髪は、所々に血が付着している。家にいたからと気を抜いていた部屋着は、プリントシャツとズボンという簡素なもので、縄はどこにもない。白い細腕を見てみると縄の跡と青あざがはっきりと残り、動かすような足も消え失せていた。
全てを理解した私は、元から青かったと思われる顔で笑う。ユウコも笑い、仕方なさそうに手を伸ばした。
「強盗に襲われて、そのまま死んじゃったのね。要らない椅子だから、処分予定の学習椅子の元に運ばれた。だから、私言ったじゃない、『仲間』になろうって」
「うん、……ううん」
その手をしっかりと握って首を振った、私は先程も否定した筈だ。もしかするとどこかで分かっていて、理解したくなくて見ないようにしていたのかもしれない。私の声はユウコと同じではっきりとしているが、決して生きている者の声とは合わないのだろう。
「独りぼっちの幽霊同士で、友達になろう」
椅子の上で死んだ二人が、折角出会えたのだから。


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『五年目の椅子』 作:彼方
絵作家:たなかひとみ

私達のアパートには椅子がある部屋が一つだけあった。それは二人が自然に集まる居間だった。
結婚してから五年が経つ。月日はなんとも速くて私は一人で驚いた。子供はまだいないけど、私はいなくてもと思ってもいる。平和で幸せな日々を過ごしている…そんなわけないじゃない?不満なんてたくさんある。ただ私はいつも我慢していた。

「どういうこと?」
夫の財布の領収書を出していつもの様に居間で整理していた。するとなんと高額な領収書が出てきたのだ。どこのお店かはわからない。だからお風呂上がりの夫に直接聞いてみた。
「…」夫は目の前に座ったものの、黙ってこたえない。だんまりか?
「何買ったの?こんなに高い物。」「…」それでもこたえない。ハァー。思わずため息が出てくる。
「あなたっていつもそう。黙ってれば全て事が進んでいくと思って。現実そんな上手くいったことあった?そんな訳ないでしょう?」それでも黙っている。
「私いつも我慢していたのよ。あなた、大事な場面でいつも黙ってしまうから、いつも私がフォローして…なんかもう疲れたわ…」椅子の背もたれにぐったりと体を預ける。夫はただ黙って下を見ていたが、ちらっと時計を見て部屋を出ていった。「…」残された私は何か喪失した様な気分になってなんだか悲しかった。

こういう時、同じベットで寝てる事が嫌になる。部屋で別れても結局ベットで顔を合わせる。夫は向こうを向いてこちらを見る気もしない。もう私達、だめなの?清々するって気持ちと少し寂しい気持ちが入り交じった夜だった。

次の日。私はとうとう決意した。椅子のある居間でまたお風呂上がりの夫を待った。夫は何も言わず目の前に座ってくれた。
「…ねぇ、私達、お互いに一人になってやり直さない?」
夫が驚いてこちらを見た。
「別に怒ってないわ。ただ思ったの。この年齢的に一からはキツいけど…どう?」
「…」するとまた夫は黙った。
「…もう!そのだんまりがわからなくて苦しいのよ!」つい怒鳴ってしまった。ハッと気付き口を軽く抑えた。時間は夜の十二時をまわろうとしていた。夫はまた黙って部屋を出ていった。それがこたえなの?私は椅子に座りながら涙が流れた。やっぱり私は…そう思っていた時
「大丈夫か?」優しい夫の声が後ろからした。振り向くと部屋から出ていったはずの夫がいた。
「どうして…?」夫は何も言わず私の横の椅子に腰かけて、背中を撫でてくれた。
「俺が泣かせたんだな。いつもごめんな」そんなの「そんなの今さら言わないでよ~」私はますます涙が止まらない。「いや、ちゃんと言わせてくれ。いつもちゃんと言葉をかけれなくてごめんな、あとな黙ってればいいとは思ってないよ。本当は色々言いたいけど俺も我慢していた。」
「なにそれ…私達、似た者同士じゃない」少し笑った。夫も軽く笑う。

「…これ」
夫が小さく言いながら差し出したそれは、小さな四角い白い箱。私は中身の察しがついた。
「これって…」夫が微笑みながらテーブルに箱を開けて置いた。

それは結婚指輪だった。

私は自然とまた涙が出た。今度は嬉し涙だ。
「五年前、結婚してほしいってここでいったとき、俺はお金がなくて指輪を渡せなかった。五年かかったけど、渡させてほしい。改めて、俺と結婚して下さい。」

私は夫に抱きついた。夫は静かに背中を撫でた。
私、言いたかった。やっぱり私はあなたと居たいって。でも涙をたくさん流して言えなかったから少し残念。

この椅子のある部屋で、あなたと過ごした日々はとてもとても私にとっては輝いていて宝物です。また五年、一緒に過ごしていきたいね。

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『未来をツクル』 作:玖音 楽

「もう少し、右を向いて」
ああ、またか。
そう考えるのは、何度目だろうか。飲み込んだため息が、鼻腔からゆっくりと出て行く。指示に従い頭部を右側へ向ければ、止んでいた鉛筆の音は軽やかに走ることを再開した。
一体何度、このやり取りを繰り返しただろう。私と彼女以外、誰もいない教室で、椅子に行儀良く座るよう指示されてから、指示の主は目の前で一心不乱に何かを描き続けている。
教室に入ったときよりもほんのり紫色に染まった空が、どれだけ時間が経ったのかを嫌でも表している。そろそろ首と腰が痛くなってきた。それなのに、彼女は私とは正反対に、行儀悪く机に腰掛けており、都度姿勢を変えながら作業に没頭している。
どうやら私の絵を描いてくれているらしいこの友人は、まさに帰路につく直前だった放課後、急に空き教室に来るよう私に言いつけたきり、時々飛んでくる「右側を向け」や「背筋を伸ばして」といった指示以外は、何も言わずにいる。
「チエ、もう一時間以上は経つけど。まだ終わらない?」
一般的な寛容さは備えているであろう私の我慢が、そろそろ限界を迎え始める頃。疲れを含んだ問いかけに、目の前の友人――チエの鋭い視線が、手元のスケッチブックからこちらに向けられる。
「まだだよ、あーちゃん。もう少しだから」
そう答えるや否や、視線は再びスケッチブックに落とされる。先ほどから、こんなやり取りを何度も行なっている。わかってはいたが、さすがにそろそろ飽きてきた。
「さっきからそればっかり。せめて、何を描いているのかくらいは教えてくれても良いじゃん」
苛立ちを含んだ私の呼びかけに応えるように、今度は視線だけでなく彼女の顔ごと、ようやくこちらに向けられた。
「あーちゃんだよ」
それは知ってる。と、言いかけた言葉は喉に押し込める。
「私の、どんな絵を描いてるの」
「あーちゃんの、未来だよ」
沈黙が訪れる。こういう状況って、西洋では天使が通ったって言うんだっけか。
「あたしね、その人の未来の姿がわかるの。それを絵に描けるんだ」
目は細められ、口角は上がり、ふすんふすんと鼻腔から息が吹き出される。スケッチ中は常に無表情な彼女が見せるには珍しく、文字通りの得意顔であった。
「チエ、大丈夫? ご飯はちゃんと食べてる? 食べかけだけど、チョコいる?」
「別におかしくなったわけじゃないよ、あーちゃん」
「フツーは、そう思うでしょ。何なの、未来がわかるって」
「言葉通りの意味だよ。あーちゃんを見てるとね、視えてくるの」
「じゃあ、さっきから私の未来の姿を描いてるってわけ?」
「そういうこと」
「だったら、私は座ってても意味は無いんじゃない?」
「いいから、ちゃんと座っててよ」
チエはそう言った後、再び無表情で絵を描くことを再開させた。静かになった教室に、再び鉛筆の走る音が散らばっていく。
私もそれ以上の追及を諦めて、モデルになることに集中することにする。近いうちに引っ越しを控える私と、学校に留まる友人。もうすぐ、こんなやり取りを行うことも無くなるだろう。そう考えると、少しくらいは我儘に付き合ってもいいかと思った。
それに、彼女の『未来が視える』などという虚言を聞くことにも疲れた。だって、私には自分の未来がわかっているのだから。
「チエ、なんで私がいつも体育を見学しているか、知ってる?」
「うん。ここが、しんどくなるんでしょ」
具体性のない内容の反応が返ってくると、目線はそのままに、鉛筆を持った右手がスケッチブックから離れ、持ち主の左胸に当てられる。手のひらで紙面に接していたであろう箇所が、黒い鉛筆粉にまみれて鈍く光っている。
「そういうこと。今回の引っ越しも、その手術も兼ねてるからなの」
「そうなんだあ。寂しくなるね」
「失敗するかもしれないし、成功しても将来的には駄目かもしれない。そんな私に、未来なんてあるわけ無いじゃん」
思わず笑いが零れ出す。幼少期で早々に余命宣告を受けたような、残酷な診断が私から未来を、希望を奪ったのだ。小学校にあった、将来の夢を書く授業は私にとっては地獄でしかなかった。高校、大学、就職を考えるなどもっての外で、素敵な男性との巡り会いというものも夢見ることすら許されない。
それが今、友人が自分の『未来の姿』を描く為のモデルになっているなんて。ああ、なんて滑稽なことをしているのだろうか。
「でも、別に考えるだけは悪いことじゃないでしょ?」
自嘲する私に対し、そう言い放つチエの態度は、酷くあっけからんとしていた。いつの間にか視線はこちらに向けられ、小動物のように曇りが無い瞳が私を捉えている。
「私はわからないけど、確かに、あーちゃんの考えてる結果になるかもしれない。それでも、先のことを考えるのはとっても楽しいよ? それに、それを実行するんだって気持ちがゲンドーリョクってやつになって、良い方向に進むかもしれないでしょ」
小さな子供のように笑ってみせるチエの持つ、開かれたスケッチブックがひっくり返されると、細部まで描き込まれた美しい鉛筆画が完成された姿で目に飛び込んできた。
本棚やテーブル等の家具類だけでなく、テレビでしか見たことないような古めかしいスタイルの薪暖炉まで置かれた部屋を背景に、真ん中には椅子が一席。
そこには、スカートとブラウスというシンプルではあるが上品さを漂わせる姿の女性が一人、こちらに硬い表情を向けて姿勢良く座っている。
若くはない見た目のようで、凛とした瑞々しい女らしさをまとった、綺麗な人だ。しかし、目元や口元、そして顔の黒子の位置には、見覚えがあった。
「これ、私?」
「そう。だって、今のあーちゃんと同じポーズで座ってるでしょ」
確かに一、二時間ほどそれと同じ体勢で座ってはいたのだが、違うそうではない。一見、自分の母親にも似ていて、目の形や鼻の高さ、右目の泣き黒子は、父親から受け継いだそれに相違無い。本当に、未来の自分自身が写し出されたような姿であった。
「この前、一緒に映画を観に行ったときに、あーちゃんが言ってたじゃん。映画に出てたような、本がたくさん入った本棚や、大きなテーブルと薪の暖炉に憧れるって。だから、それを叶えようと思って」
正しくは、こんな部屋を持っている人はさぞ幸せなことだろう、であったが。しかし空想でも、スケッチブックの中にはそんな素敵な部屋があって、そこには大人になった自分がいる。これが本当に未来の私だったら、どんなに素晴らしいことだろう。
「本当に、こんな未来になったら、いいなあ」
夢見ることすら許されなかった私には、それはとても輝かしいもので、涙が出てしまうのは、眩しすぎて目に染みてしまったからだろうか。
「きっとなれるよ、あーちゃん。だから、ね」
肩に手が乗せられ、気がついたときにはチエの笑顔が目の前にあった。涙でぼやけてほとんど見えはしないが、温かな微笑みがそこには確かに存在した。
「手術、絶対に上手くいくから」
『未来が視える』なんて、励ます為の嘘に決まっている。それでも、チエの言葉は、このスケッチブックに描かれた未来は信じていたい。そう思わずにはいられなかった。

* * *

静まり返った教室の中で、チエという少女はただ一人椅子に腰掛けていた。その表情に、仄暗い影を宿して。
そこは先ほどまで、絵のモデルとなっていた彼女の親友が座っていた椅子でもある。
「あーちゃん、ごめんね。あたし、ウソついた」
手には、開かれたスケッチブック。見つめる先には、友人に『未来の姿』と伝え、偽った(つくった)絵。重い手つきでそれがゆっくりとめくられ、下のページが姿を現す。
それは、友人がこの教室に来る前に描かれた、『本当の未来の姿』を描いたものだ。
「本当に、ごめんなさい」
唯一の親友に向けられた言葉は、涙と共に色褪せた教室の床に零れ落ち、誰に聞かれることなく吸い込まれていった。

描かれていたのは、同じような家具や薪暖炉がある部屋。そこには、誰も座っていない椅子が一席だけ、真ん中にぽつんと佇んでいるのみであった。

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『瑠璃色とアマツツミの椅子』 作:相良 つつじ

九州山地の奥に人口約2千人の小さな村があった
過半数が高齢者で、村は限界集落になる寸前だった
しかし最近、近くで大規模な公共事業ができた事と人気のアニメ会社が
「神話と秘境の村」として映画に取り上げた事で大勢の観光客が訪れ
都会に出て行った者達も妻や子供を連れて戻ってきた

盆も過ぎた八月下旬、千代という8才の少女は祖父母と住んでる家の前のあぜ道で
隣家の同級生のナナちゃんと、草木や花を摘んだりバッタやトンボを追いかけて遊んでいた
2人は砂利道の側のサラサラ流れる冷たい用水路に膝まで浸かって縁に腰を下ろし
狭い段々畑や、空を流れる真っ白な入道雲や、大きな山々を何処ともなくボーッと眺めた

この村の小中学生は、全部合わせて57人で都会の子が半数を超えていた
千代と同い年の子供は、ナナちゃんと大樹くんとミキちゃんの4人いたが
大樹くんとミキちゃんは春に転校してきたばかり
休みの度に都会にいくので千代とナナちゃんは、いつも2人で遊んだ

高い山々の西の方から薄っすらと橙色の夕焼け雲が光り、ひぐらしが鳴き始めた
千代が裸足で水をジャブジャブと蹴っていると、ナナちゃんが水から上がりサンダルを履く
今日のナナちゃんは落ち込んでいる風に見えたので、千代はそっと側にいた
ナナちゃんが歩き始めたので、千代も急いでサンダルを穿き小走りで追う

2人は、井戸のコンクリート蓋の上のママゴト道具を横の木箱に直し、次に遊ぶ為の片付けをした
摘んだ野の花や実は、一緒の箱に仕舞うとままごと道具が汚れるので、コンクリートの蓋に置きっ放しにした
「片付けも終わったけん、晩御飯に呼ばれるまで鈴虫ば捕らんね?」
千代が話しかけると、ナナちゃんは突然ボロボロと泣き出し
「千代ちゃん、ごめん…ごめんね。また、明日来るけん、そん時ね」
ナナちゃんはヒックヒックとしながらタオルで鼻をかんだ
あんまり泣くので千代は何も聞かずに、じゃあね。と言ったが

ナナちゃんは無言で自分の家の中に入ってしまった
何があったか気になったが、結局、聞けず隣の自宅まで歩く
庭の前まで来ると、いつもは開けっ放しにしてあるジャバラ門扉が閉まっている
不思議に思いながら、格子に手をかけて開けようとすると堅くガシャンと開かない
石でも詰まっとるとかな?と門の正面まで行き、取っ手をガチャガチャ回したが頑として動かない
鍵の口を見たら分厚い鎖がグルグルに巻かれ大きな南京錠がズッシリかかっていた

8月下旬、ジッと立っていると脚に蚊が刺し汗がツツーと頬に流れていく
「爺ちゃーん!婆ちゃーん!千代ばい!開けてよ!門限はまだやろうもん!」
大声で玄関に向かって叫ぶ。が、シンとして返事がない
隣のナナちゃんちを見ると、煌々と電気が点き賑やかな気配がしている
千代は待ちきれななくなり、門扉の中途に足をかけてヨイッと越えようとすると

「こおらぁ!なんばしよっとか!服の破るるぞ!」
と婆ちゃんの怒鳴り声がし、驚いた千代はバランスを崩し後ろの砂利道に転倒した
ムスッとして状態を起こすと、千代の婆ちゃんが立っていた
「だって、鍵の閉まっとるとやもん。門限ば守っとったとに、こげんガチガチに絞めてから!」
怒りながら立ち上がると、婆ちゃんは千代の後頭部を撫でた
「頭は打っとらんね?痛かったろう…ヨシヨシ」
婆ちゃんは白地に水色の夕顔の浴衣を着て、豆絞りの手ぬぐいを頭にかけていた
薄手の浴衣から婆ちゃんの肌着が透けている
「婆ちゃんソレ、寝巻きのごたる。外でそぎゃんと着たら恥ずかしかけん止めて」
「何ば言いよるとか、婆ちゃんが庭でどぎゃん格好しても誰も見らんよ」
「福岡から来た大樹くんが言いよったとよ。こん村の人は裸のごた格好でウロウロするけん、みっともないって」

フッと笑いながら婆ちゃんは頭に被っていた手ぬぐいをほどいて、千代に付いた砂利や土を払う
「婆ちゃんもうよかけん、せんで。風呂で落ちるやろう?はよ、家へ入らんね?」
浴衣の袖を引く千代に、婆ちゃんはハッとして聞いた
「千代、さっきから恥ずかしか、恥ずかしかって…。お前、生理が来たとや?」
「来とらんよ。うちの学年はまだ誰もなっとらん」
婆ちゃんは、ホッと安心して千代の頭をポンポンとした
「良かった、じゃあ行くばい。千代、今日はウチに入ったらいかんとよ、ちゃあんと行く所があるけん着いてこんね」
「えー!何でー?」
婆ちゃんが歩き出したので、千代も慌てて後を追おうとしたが、ふと気になって家を見た
家には電気も点いておらず、神社や岩や神木にかかっている白い紙垂が沢山、連なって一周ぐるりと家を囲っていた
「婆ちゃん、ウチに何か紙が貼ってあるばい。どぎゃんしたと?」
「よかけん…、何も心配せんで着いてこんか…」
聞いても答えてくれないと察した千代は、うん。と小さく返し婆ちゃんにくっ付いた
村のチャイムが割れた電子音を鳴らし、6時のサインが山々にコダマする
どんどん辺りは暗くなっていくので、寂しくなった千代はチャイムに併せて”夕焼け小焼け”を歌いながら歩いた
2人は村の中心の大橋を渡り、野菜畑の道を通り、山に入った
狭く舗装もされていない獣道をズンズン進む婆ちゃんに千代は必死で着いていった
汗を拭いながら、浴衣に咲く夕顔を目印にして
暫く歩くと広場へ出た。上にはドンと赤い満月が星をかき消している

「こん山は女は入ったらいかんとやろ?田所のおっちゃんが言いよったばい」
「千代は生理が来とらんけん女にはならんとぞ。あれば見ろ」
婆ちゃんが顎をクイッとやる、その先には月明かりに照らされた鳥居があった
赤い色も塗っていない剥き出しの木材の古い門
その横に四角い石碑が立っていて[女人結界門]と彫られていた
「にょにん…けっかいもん?」
「そぎゃん!よう読めたなぁ。千代」
婆ちゃんは躊躇う事なく、女人結界門を潜っていくので千代も恐々と門を潜り後に続いた
山道は広くなり、やがて丸太階段になり、さらに登ると、近くから滝の音が聞こえてくる
階段が終わると、また広場があり小川、滝、石造りの社、3人掛けのベンチがあり、周りを弱々しい電燈が照らしていた

「千代、服ば脱げ」
「イヤ!こぎゃんとこで」
「誰もおらんけん、心配せんと言うことば聞け」
闇夜の心細さで素直に服を脱いでベンチに置いた
「よかや、これから婆ちゃんのする事ば全部真似して来い。間違うと山の鬼が千代ば食うぞ」
千代はビクッと驚き、コクコクと頷いた
婆ちゃんは滝の方に向かい、そのままトポンと水に入る。千代も慌てて水に入るが酷く冷たい
赤い月と電燈の明かりを頼りに、水面に揺れる白い浴衣の裾を追う

婆ちゃんは滝の前まで来て、ドドドと激しく水を落す滝に頭を突っ込み奥へ入って行った
千代も、ヤケクソになって頭から滝に入る。滝の圧力で頭がクラリとした
滝の裏側は鉄の分厚い観音扉があり、扉は少し開いていた。婆ちゃん先に入ったのだろう
真っ裸の千代は重い扉を開いて中に入った

中は20畳程の、緑色に輝く部屋だった
ちょうど翡翠をくり貫いて作ったかの如く美しい直方体の空間
外が暗かったので部屋の眩しさに目が眩んだが、次第にハッキリと見えてきた
どこが光っとるとやろか?電気もなかとに…千代はキョロキョロと部屋を見渡す
部屋の中心には、翡翠で作られた一人掛けの椅子
背もたれと肘かけもある翡翠の椅子
千代は急に寒気と眠気に襲われ、裸で椅子に座った
ヒンヤリとした石の表面が細い体を震えさせる
眠りそうになるが、先に入った筈の婆ちゃんが居ない事に気がついた
千代は大声で呼んだが、石の壁にビーンと響くのみ。入り口の扉も無くなっていた
怖くて堪らなくなり立ち上がろうとするが、身体が金縛りで動かない
足掻いてみてもビクともしない、なす術も無く椅子に全身を預けた
意識も遠のきそうになる寸前、椅子に突然ビリビリと強い電気が走る
千代の身体は電流で焼かれ、声も出ない程の痛みと衝撃に背中は反り髪の毛が逆立った
目の中に閃光が見え、千代は気絶した

どれくらい経ったのか、激しい光りで目覚めた。部屋中にプラズマが走り白や青や紫にバチバチと鳴っている
目前には白く巨大な蛇がトグロを巻いてこちらを見ているが、疲れ果てた千代は驚く気力も逃げる力も無い
やがて蛇はモクモクと煙と発し、電気をバチバチと鳴らしながらグニャリと変化して鬼になった
角を生やした真っ赤な鬼は、電気をビリビリとまといながら千代を睨んだ
ウチは死ぬとやろか?食わるるとやろか?グタリと千代は諦めた
鬼が死にかけている千代の頭に手をかざすと、紫の顔が元の血色を戻していく
体に力が込み上げてきて、段々と意識がクッキリとした

「今度こそ、人間に生まれてきたと思ったのに、たった八年しか持たなかったのか」
「何の事ですか?」
「そうか、何も覚えていないのか」
鬼は部屋中を無人に飛び交うイナズマを両手にグワッと集めて丸く帯電させ、部屋の壁にドンとぶつけた
瞬く間に電気が壁石に乗り移り、部屋の上下左右前後と6面が電子モニターになった
画面には都市を歩く者、電車の中、部屋で過ごす青年などがいっぱいに映っている
「これは?」
「お前の村から近い都会だ。見た事が無いのか?」
「はい。ずっとあの村におったけん都会は知らんとです」
「それで親はどうした?今はどうやって暮らしているんだ?」
「う…」
千代の顔がじわりと熱くなる、動悸が高まって耳が赤くなり膝の上でギュッと手を握った
「お父さんとお母さんは…まだ、自由に生きたいそうです。二人別々に恋人もおるそうです」
ポタポタと我慢していた涙が、硬く握ったこぶしの上に落ちて行く
「それで、うちは生まんかった事にしたいって…爺ちゃん婆ちゃんと山で暮らせって言うて
だから…だから、ウチはずっとお父さんもお母さんにも会えません。会ったら嫌な事を思い出すちゅうて、会いたがらんけん。黙って村で暮らしとるとです」
感情が昂っていき呼吸が荒くなり、千代は話せなくなった
鬼は左の画面を指す。そこを観ると安い店で牛丼を一人で食べるスーツ姿の寂し気な中年の男がいた
次に鬼は右の画面を指しす
カーテンを閉めた暗い部屋で、パソコンの画面を見つめる覇気の無い中年の女がネットゲームをしている
「その二人がお前を捨てた親だ」
千代は驚いて言葉が出ず、呆然と左右を見た
「幸せに見えるか?どっちかと暮らしたいか?」
首を横にブンブン振りながら、嫌ですと答えた
「しかし、お前の祖父母はもういないんだぞ」
「え?」
「一昨日、首を吊って心中したんだ」
「そんな・・・婆ちゃんがここに連れて来たとですよ!」
鬼は少し黙って口を開いた
「やはり気がついていなかったのだな。お前も首を吊っているんだぞ」
あっ…。千代は一気に思い出した。爺ちゃんの癌が見つかり苦しむくらいならと、3人で首を吊った夜を
その瞬間、部屋は大きな音を立ててバリバリと割れ始めた。欠片には一つ一つに色んな顔が映っていた
「これらは仮想世界に没頭している者達だ。皆、現世から逃げたいと思っている。もう限界なのだと」
大きく天井が割れ、赤い満月が見えた。千代は椅子ごと浮かび上がり、勢いよくビュンと昇った
鬼は流れる雲を掴んでフワリと乗り下を指した
「お前の村は小さいだろう?見ろ、高千穂まであんなにも近い。そして向こうがお前の生まれた福岡の街。田畑も随分少なくなった」
飛行する椅子は電気を流していたが、もう痛みはない
「あ、ダムがある!あそこには毎年綺麗な桜が咲くとです」
「桜か…あの木々の哀しみが聞こえれば美しいなどと言うまい。あれらはお前と同じで生まれた場所から離され、身体を削られた山の神々と泣いて暮らしているのだ」
鬼が言うと、千代の胸に桜達の夥しい嘆きが入ってきて、余りの理不尽に消えてしまいそうな絶望を感じた
流れるままに漂うと、福岡の街が派手な光りを放っている。
眼下には大勢の忙しい人々がウジャウジャ歩いていて、千代は、両親がこんなに大勢の中の一人に過ぎないのかと思うと虚しく思えた
「皆、疲れとるごた。寺で見た地獄の釜の絵のごたる」
「地獄の釜?そりゃあいい!あはは!」
鬼が大笑いして手を叩くと、ドドーンと地上の街へ雷が落ちた
「お前に本当の地獄の釜を見せてやろう」
椅子はビリビリ唸りながら千代を乗せ、山を越え海辺の町の上空にきた
「ここの周辺の海の深くには竜宮があり、阿曇磯良という神が古代から海と民を守ってきたが、奴はもうすぐ大地と共に怒りを噴出し、民衆と心中の決意をしている」
「それってどういう事ですか?難しくて分からんです」
「俺は雷神だ。人が作ったイナズマがこの地を乗っ取り、俺と人や農地を焼き消すと告げた。電気の神は二人も要らぬと」
「え?あなたは消えるとですか?この町も?」
「分からん。俺は戦うつもりだが、人のイナズマと俺は共に天津罪に問われて大いなる神の罰を受けるだろう」
ビュウと風が吹き椅子は、割れて散り散りの花びらになった
「美しか…白、ピンク、赤、色々あるとですね」
千代は涙をポロリと落す。鬼は頬の涙を親指で拭い取って尋ねる
「俺が分かるか?」
千代は頷き、体はスーッと半透明になっていき、遠方に見える不知火を眺め微笑んだ
「あなたは私です。私は貴方の分身となって幾年も生まれ代わりを繰り返し、肉体を持ってこの土地にいる運命」
空中を漂いながら千代は、どんどん薄くなっていく
「待ってくれ!お前は、次の輪廻で何になるのだ!教えてくれ」
鬼が透明な千代の手を掴んで問う
「私はもう一度、梅の木になります。この地が大破して再起する迄の千年の刻を貴方様との因縁の場所で、無言の木と成り一切を見守るつもりです」
「そうか…約束だな。再びあの地に落ちてくれるのか。お前は総てを見ていておくれ、俺の魂は消えても世界は終わらない」
「貴方は消えません。千年後、またこの空で再開するのです」
千代と名付けられた体は、ヒラヒラと梅の花びらになり九州の空に舞い踊り、花弁の一枚一枚に黄金の小さな種子をつけた
種を乗せた梅の花びらは、何千何万の光の粒になりキラキラ輝きながら 東から吹く風の中に消えていく
鬼が方々に舞い散っていく光を名残惜しく見つめていると、風音から8才の幼い娘の笑い声が聞えた
すると雷神は顔を上げグッと歯を食いしばり、激しい雷雲の中に戻っていった

[完]

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『冗長』 作:Daigon

とても暑かった。私の部屋は四畳半で、古い木造のアパートの一室。日中と比べれば暮れは涼しいが、赤く燃え上がるような夕焼け空を見ていたら決して涼しさは感じなかった。
私の部屋は赤く染まり蜩の鳴き声が部屋を満たす。部屋の隣を通る線路に電車が通る。そして私の部屋は小刻みに振動して、ガラスの木戸はガタガタと震える。
それらの音を聴き現象に目をくばるたびに、私はなぜか人生に絶望するかのように文机の前でうな垂れた。
ひたいからつたって、顎から落ちていく自分の汗は、白紙の原稿用紙を滲ませた。それも段々と滲みが乾いていく。なにもかかれてないにも関わらず無性にだめな筆をとったような気がして、私は原稿用紙をまるめて放り投げた。
部屋の隅にぶつかり畳にむなしく転がる音がした。後ろは振り返っていない。ただ、そうあってほしかった。

「……私に、きっかけがあれば。私には、才能がないのか……」

まるで誰かに話しかけるように、おちかけていた眼鏡を戻し、窓の外へ目をやった。擦りガラスには自分の顔はうつらず外の赤色に語りかけていた。
私は嫌気がさして、どさっとうしろに倒れこみ、畳に散らばった原稿用紙の上に寝ていた。こんな、嫌な世界はやく抜け出してしまいたい。

気がつくと、夜だった。部屋のなかは真っ暗だったが、電車の振動で目がさめた。部屋は電気がとめられている。
しばらく部屋の暗い場所をじっと見つめて、目がなれはじめたところで起き上がった。立て付けの悪い扉は鍵もしまらない。
外へでて、そのまま階段をおりていった。近くには飲み屋街がある。よれて汚れたシャツに擦り切れたズボン。みすぼらしい姿だがポケットにはシワシワになっている百円札が一枚入っていた。
家賃も滞納し続けて、もう払える余力もない。なにか有名な文学賞がとれれば10万の賞金が貰えるらしいが、狭き門なうえに労力は凄まじい。それならば汗水垂らして働いたほうがいい。
だが、その気力もなかった。今はただ酒を呑んで現実から目を背けたかった。自然とまわりの人間は私を避けていく。
相当、おかしい奴だと思われているのだろう。しばらく歩くと大通り沿いに立ち並ぶ居酒屋で、一番薄汚い暖簾を掲げている焼き鳥店をくぐった。

「らっしゃい」

いつに洗ったかわからない白い肌着を着た恰幅のいい店主が、油ぎった額から汗を垂らしながら無表情で出迎えた。
カウンターには既に騒いでいる仕事終わりのおっさんで溢れていた。私は奥の座敷にあがり、薄く湿った座布団にすわる。
無言で店員のおばさんが水をおいて、こちらを見てきた。銘柄もかいていない焼酎とかかれたものと、ハツを1本頼んだ。
おおよそ持ち金はここで出ていかせる予定だった。店内の焼き鳥の煙。むせ返るような騒ぎ声と蒸し暑さ。鈍る思考はさらに鈍っていた。
少ししてハツと焼酎が乱暴に机に置かれた。私は飢餓に苦しむかのように半分ほど一気に焼酎を飲み、ハツを貪った。久しぶりの酒で、すぐに酔いがまわってきたことを理解した。何もせず、ぼうっと虚空を眺めていた。
まわりの騒音が耳鳴りに変わるころ、勢いよく扉をあけて一人の客が入ってきた。夏場だというのに、深い紅色のネクタイをしめて、黒色のかっちりとしたスリーピーススーツを着ている、背の高い彫りの深い壮年の男だった。
到底この店には似つかわしくない姿に、客一同騒ぐのをやめていた。

「席、空いてますか?」

汗ひとつ垂らさない男の爽やかな顔は、店主をさらに無言にさせていた。男はカウンターの椅子をたぐり私の横に座った。私はその男を凝視していた。

「……君が一人みたいでしたから。いかがですか。ご一緒に一杯」

知らない男からの申し立てに私は怪訝そうな顔をしていたのだろう。男は私にたいして、苦笑いを浮かべながら目を細めた。

「恥ずかしながら、私はいま一緒に飲む相手も孤独なのですよ。奢りますから私の話でもきいてはくださいませんか」そういうと、男は店員を呼んで、手当たり次第に焼き鳥と、ビール瓶を一本頼んだ。たくさんの注文と不釣り合いな客の登場に、無愛想な店員もどこか下衆な笑みを浮かべていた。
酔いもすっかり覚めて、また酔いを戻したい私にとって、自分の金を浪費せずに飲み食いできるなんて夢のような話だった。

「遠慮しないでください。なんなら、あなたのお腹がはち切れても大丈夫ですよ。責任をもちますから」

少し堅いゴツゴツとした手で私の肩を優しくポンポンと叩いた。華奢な私の身体はゆらゆらと揺れた。男から漂う気品と男らしさに私はどこか気を許していた。
タイミングを図ったかのように店員が焼き鳥とビール瓶を引き連れて、机の上に並べていった。男は足を組みこちらに笑顔を向けていた。

「相席させて頂いた仲です。私は小説家をやっている……そうですね。酒席で身分を明かすのは無粋なので、世間での通り名は別なのですが、本名は関といいます。君は?」
「私は内藤といいます。私は……」言葉に詰まり、店内の騒音に反して、二人の間に無言の時間が流れた。関は小説家、おおよそ、見た目から察するに、有名な小説家であることに間違いはなかった。私も小説家を目指しているが、私はこの格差に卑しくも妬んでいた。
「若いからまだまだこれからというところかな?」

鶏皮を頬張りながら関は微笑んでいた。黒々とした目の奥には、やつれた白い肌の自分がうつっていた。呆然としている自分を見て、関は真顔になり、私の頭を優しく撫でた。私は、だれかに体を許すことはいままでなかったが、崩壊した現実が非現実のようになっているなかで更なる非現実を味わっている私の感情は、目から滴る涙で現れていた。関はそのまま優しく私を撫でていた。私は私自身がわからない。

「辛いのですね……髪もこんなに傷んでいるじゃないか。ちゃんとした場所で寝ているんですか?」

私は無言で俯いていた。関と私以外はチラチラとこちらに目配せをしていた。今まで自分に目を向けるなんてこと一切なかったが、私ではなく関に気をかけていることは明白だった。

「……内藤クン。君はまるで昔の私だ。君は私みたいだ」

顔を少しあげた私は、慈恵に満ちた関の目をみて、そのまま広い胸板に顔を埋めた。ほのかに香水のにおいが鼻から顔に巡っていた。

「寂しいのですか?私の中でよければ、いくらでも甘えなさい。今この場において、私の存在意義はそんなものです。お互い、孤独なのだから」

まわりの音が遠のいていくのを感じた。意識が遠のく、静かな心地が私を包み込んでいた。遠くに、関の声が聴こえる。ただ、それすらも遠のき、悦楽に近い心地よさに私は包まれていた。

…………。
……きなさい……。
……起きなさい。
「起きなさい。内藤クン」

気が付くと、私は暗い車の後部座席にいた。隣にいる関は私の肩に手をのせていた。
「よく眠りましたね。店主にきいても君の家がわからないというから私の家に向かっているのですよ。とくに大事な用事はなかったかな?もうすぐ着きますが。」
運転席では運転手が寡黙に運転していた。レース編みのカバーがついた柔らかい座席に、音もなければ振動も少なく、冷房の効いた車内。

「……すいません。はい。大丈夫です。とても、ありがたいです」
「ははは。内藤クンは正直ですね。ほら、もう見えてきました。降りる準備をしてください」

程なくして、車はゆっくりと停車し、扉が開いた。外に出ると、まわりは木々が生えた森で、目の前には煉瓦で組まれた二階建ての立派な邸宅があり、邸宅の玄関横に控えていた老いた紳士が扉をあけて、笑顔でこちらを見ていた。

「私の家です。入ってください。」颯爽に家の中に入っていく関に、私は速足でついていった。
入ってすぐはエントランスホールで、邸内厳かな間接照明で彩られ、どこか落ち着く造りだった。私は、ホールから入ってすぐの奥の部屋に案内された。賞状やトロフィーなどが飾られている。応接間だろうか。関はソファーに腰かけて、空いている隣をポンポンとたたいた。私は懐いた子犬のように従順に隣に座ると、関は肩に手をまわして、一息ついた。

「私の家は気に入っていただけましたか?」
「はい。とても。このような邸宅に入った経験は、今までありません」
「経験……。そう、内藤クン。すべては経験なのですよ。私は経験を欲しています。小説家として、多大なる経験を。」関はそう言いながら、私の頭をやさしく撫でていた。まるで、性に夢を見る思春期の処女のように、心がなぜか高鳴っていた。
「……経験、ですか」私の小さい声は、室内に響いた。時計の針の音が、静かに室内を駆け巡る。
「そうです。経験です。私は……小説家として、刺激を欲しているのです。その刺激とは、要は経験です。ただ、私ではもう、それを味わいきれなくなったのです。目も、舌も肥えてしまいまして」関は寂しそうな顔をすると、私のほうに顔を向け、耳に口を近付けた。心なしか、私の息は荒く、関の吐息を耳で感じていた。「内藤クン。君は自分でおもっているよりも、美青年だ。ただ、君は私がどうこうしてはいけない。君の白い肌を触れて、そのまま胸倉から手をいれることもできるが、それを私はしてはいけないのです」まとわりつくような言葉に私は意識が朦朧としていた。「どうして……ですか……?」関は私の返答があらかじめ知っていたかのように、耳にキスをすると顔を放した。
「お金に困っているのでしょう。少し、頼まれてはくれませんか。とある方にあっていただきたいのです。あなた自身、悪いことはおこらないとおもいますよ」そういうとソファーから立ち上がり、部屋の隅にあるウォルナット調のチェストから封筒を取り出して、足早にソファーに戻ってきた。

「内藤クン。中を見てみなさい。」そう言い、封筒を私の手の中に握らせた。私は分厚い封筒に恐怖心を抱いていた。
関から受けた誘惑の興奮も醒めないなかで、封筒を受け取りながら、頭は朦朧から恐怖と混乱に代わっていた。「…………こんな、こんな大金……。え……?」私は思わず、関の顔をまじまじと見てしまった。そのときの関は無表情だった。「そこには100万円がはいっています。そのお金があれば、どのような夢も叶うでしょう。最新の高級車だって買えますし、なんなら、10年くらい遊んで暮らすことができます。」薄っすらと浮かべた笑みに、私はより恐怖心が芽生えた。私の怖気づいているのがわかったのか、関は私を抱き寄せて、腰に手を当てた。「……私は、君がなろうとしているものの願いを叶えてあげたい。それが本分です。あなたにやっていただきたいことは、とある方に会うだけです。そうすれば、そのお金も差し上げます。それに……」関は私をより強く抱きしめながら腰から、首元に手を流した。「内藤クンともまた会いたいのです」私は息荒く、関を強く抱きしめていた。このまま、どうかなってしまってもいいとすら思う。関は私を優しく放すと、じっと私の目を見張った。私は恍惚とした顔で関を見て、手にもたされている封筒を見た。

「関さん。やらせてください。私でよければ、きっとお力になれます」

関は無言で私の頭をなでていた。部屋には静寂が流れていたが、そこに言葉は必要なかった。

「では、内藤クン。隣の部屋にいきましょう」

関に手をひかれ、部屋の奥にある大型のクローゼットの中に入っていった。身体で布が触れ合う感覚を覚える。そして、暗い部屋に出た。窓はなく、時計の音が不規則に鳴り響く暗い室内。気が付くと、関はいなかったが、封筒は手にもっている。暗い室内で目をこらしていると、ぼうっと室内の一点に明かりが灯った。そこには木製の椅子が縄で吊るされていた。その横には、どこか見覚えのあるスーツを着た老いた男性がいた。

「……内藤クン。申し訳ない。ただ、私にはこうするしかないのです」

頭の理解が追い付いていないなかで、その老人は私の服を脱がし、私を誘導して椅子に座らせた。椅子は、ブランコのようにゆらゆらと揺れている。揺れる度に、何かを一つ。また一つ忘れている気がした。遠い昔から今に至るまで、一つ一つ。老人はゴツゴツした手で、私の身体を丁寧に拭いていたが、目には涙を浮かべているように見えた。理由は、よくわかなかった。

「……あれ。私は…………」

暗闇のなかで、ただ一点、椅子が揺れていた。

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