文章公開ページ

文×画<椅子のある部屋>(http://hakolien.hakofo.com/bunga01/)に参加される文章作家様の作品一覧です。

初めにお読みください「幻影心中」佐倉愛斗「エッタの椅子」七日「ανάμνησις」おもちりん「その椅子に座る者」ぴえ「またきてしかく」星 宗介
このページは文章参加作品公開ページとなります。
作品は第二期募集終了まで一般公開され、絵作家の参加者がコラボを希望する作品を選ぶ形となります。
納品された文章作品は、随時更新してまいりますので是非チェックしてみてください。

※絵作家の募集は【07月23日】から開始します。募集前の希望作品の申し出は受付できません。
※希望作品は先着順で受付いたします。
※参加には「お約束」を必ずお読みください。

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「幻影心中」 作:佐倉愛斗

 私は椅子に座っていた。
 椅子のすぐ隣には紺色のカバーがかけられたシングルベッド。目を覚ましたマサシさんは身体を起こして小さく伸びをした後、小さな木椅子に座る私に「おはよう、ミカ」と微笑みかけた。
「おはよう、マサシさん。今日はいい天気よ」
 マサシさんがカーテンを開けると薄暗かったワンルームに南向きの窓から光が部屋いっぱいに広がる。舞った埃がちらちら結晶みたいに輝いて二人を祝福するような朝だった。
「マサシさん、早くご飯食べないと会社遅刻するわよ」
 急かすように、椅子の上の私は言う。マサシさんは心底嬉しそうに冷蔵庫から昨晩炊いた白米と納豆と数日前に作り置きしていたひじきの煮物を出して食べ始める。猫背気味に食べるマサシさんの背中が私にはどうも愛しく思えて仕方がなかった。
「行ってきます、ミカ」
「はい、いってらっしゃい」
 部屋の角に置かれた椅子から、玄関を出るマサシさんを見送った。

 カーテンが開け放たれた窓からは、そこから繋がるベランダの先に大きな柳が見える。風が吹くと枝がしなり葉が擦れる音までもここまで聞こえるようだった。その先にはこのワンルームがあるのと同じ四階建ての集合住宅がある。アルコープに等間隔に玄関が並ぶ、古臭い高度成長期に建てられた鉄筋コンクリートの大きな塊だ。開けられない窓から眺めるこの景色は、私をほんの少しだけ寂しくさせた。

「ただいま、ミカ」
 今日は少し不機嫌そうだった。
「なあ、聞いてくれよ」
 冷蔵庫から出した缶ビールを一口飲むと、床に胡坐をかいて椅子の上の私に話し始める。
「今日、同僚の女、なんだっけ、確かタナカとかいうのが俺に『キクチさんって最近素敵になりましたよね。元々、素敵だなとは思っていたのですがさらにというか……よかったら今度食事でも行きませんか?』とか言ったんだ。さも前から好きでした、みたいな顔をしてさ。ミカと会う前の俺のことを陰で嗤ってたことを俺は知っているんだ。わざとらしいくらいにシャンプー匂いをさせてホント気持ち悪いったらないよ」
 マサシさんはもう一口ビールをあおる。
「そう、マサシさん災難だったわね」
「それで誘いを断ったら同期のヒロムに勿体ないだのなんだの言われてさ。あんな女のどこがいいんだ。俺にはミカがいるのに」
「そうよ、マサシさんには私がいる」
「でもやけ酒していないでちゃんとお風呂入りなさい」と言うと、マサシさんは「ミカがいないと俺はダメなんだ」と笑った。

 その次の日、マサシさんはラブレターを渡す前の学生のような顔をして帰ってきた。もぞもぞとして落ち着きがない。頬を赤らめて目線を右に左にと私を見ようとして見られないといった具合に。
「ミカ、今日は君にプレゼントがあるんだ」
 そう差し出した小さな紙袋の中には、高級ブランドの小さなネックレスが入っていた。細いピンクゴールドチェーンの先には小さな石が光っている。
「昼休みに店の前を通りかかって、ミカに似合うだろうって思わず買ってしまったんだ。気に入ってくれたかな」
「素敵ね。嬉しいわ。でも高くなかったの?」
 マサシさんは私が座る椅子の背もたれにそのネックレスをかけた。
「いいんだ。ミカに絶対似合うと思ったから。とてもよく似合っているよ。ミカの華奢な首にぴったりだ」
 慈しむように見つめ合った私たちは、瞼が重くなるように瞳を閉じて額を寄せ合った。
「ミカ、愛してる」
「ええ、私もよ」
 私に触れようと手を伸ばして、マサシさんは一刹那悲しそうな、寂しそうな顔で手を下ろす。現実というものはマサシさんにとって脅威であるのだと私は知っていた。
 次の日は花束を、その次の日は仕立ての良い青いワンピースをマサシさんは私にくれた。その度に私たちは幸せを分け合って、そしてマサシさんは悲しい顔をした。

「おはよう、ミカ」
 その日は冬の香りがする冷たい雨が降る朝だった。
「なあ、ミカ。どうして俺はミカに会えないんだ?」
 私は何も答えない。
「俺はミカを愛している。だけど、触れられたいし、結婚もできない。なんで、ミカに会えない?」
 私は、何も言えなくなっていた。否、マサシさんが何も言わせてくれないのだ。
「返事してくれよ」
「いるよ、私は」
「ああ、いるよな」
「うん、この椅子の上に私はいるわ」
「そう、何があっても」
 ネックレスとワンピースが置かれた椅子の上にマサシさんは崩れるように泣いた。

 私が生まれたのは、本当に些細な思い付きだった。
 当時のマサシさんは陰気で、身なりも不潔で、仕事も新卒で入ったもののうまくいかない人だった。不摂生が続き、小さなワンルームにはゴミが散乱し、休みの日は家から一歩も出ずにベッドから柳が揺れる音を聞いていた。
 だからかどうかは分からないが、これまでの人生で女性に好かれることもなく、むしろ自分のことを陰で悪く言う女性たちに嫌気がさしているほどだった。一生女性を愛することなく終えるのかもしれないとすら思っていた。しかし、マサシさんは寂しかった。心が拒絶していても、元来からの女性への欲はあった。だから話しかけたのだ、部屋の隅に置かれた椅子に。
 最初は馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。しかしどこかの国の捕虜がそんなことをして心の安寧を図ったとどこかで聞いたこともあったこともあって、試してみようとマサシさんは思ったのだった。
「おはよう」
 初めてかけられた言葉はこれだった。マサシさんの頭の中で、私も「おはよう」と答えた。マサシさんは自分が何をしているのか分からないといった具合に苦笑してベッドに身を投げて出勤時刻ギリギリまでぼんやりと私のことを想っていた。
 マサシさんが私への挨拶を続けるうちに、少しずつ自分のことを話すようになっていた。
「ミカ、俺は女が嫌いだ。臭くて、うるさくて、悪口が餌なんだ」
「そうね」
「でもミカは違うだろ?」
「ええ、私はマサシさんの悪口は言わないわ」
「俺のこと好きか?」
「大好きよ」
 ふふ、と自嘲的な笑いをそのときマサシさんはした。
 その次にマサシさんが始めたのは、私に見合う男になることを目指すことだった。
「ミカ、今日はゴミ出しをしたよ」
「すごいわね。次は掃除機をかけましょう?」
「ああ、頑張るよ」
「マサシさんは偉いわね」
 それから毎日の髭剃り、自炊、掃除を始め、乱雑としていたワンルームの床が見えるほど綺麗に片付いた。全ては私のため。私に褒められたくて、私によく見られたくて、マサシさんは頑張った。濁っていた瞳は生気が戻り、マサシさんの生活はハリのあるものになった。
 しかしマサシさんは気付いてしまった、姿の無い私を愛し始めてしまったことに。

「なあ、ミカ。愛しているよ」
 愛していると返事しても、それはマサシさんが作った私の感情。マサシさんが欲しい答えを言っているだけ。
「なあ、ミカ、ミカはそこにいるよな」
「ええ、ここにいるわ」
「愛してるよ」
「私もよ」
 そうやってマサシさんは私の椅子に縋り付いて、一緒に揺れる柳の枝がしなる音を聞いた。

 それから何日も、マサシさんは私に話しかけ続けた。
「ミカは何が好き?」
「チョコレートが好きよ」
「ミカの幼いころは?」
「あまり多くはないけれど素敵な友達がいたわ」
「俺の好きなところは?」
「私のことを大切にしてくれるところ」
「ああ、大切に思っているよ」
「嬉しいわ。そのままのマサシさんが好きよ」
「俺もミカのことを愛している」
「世界に二人きりになれたらいいのに」
「ここでは二人きりだ」
「誰もいない私たちだけの世界」
 マサシさんの顔は無精ひげで青くなり、髪も乱れ、腐った卵のような臭いが部屋中に充満していた。カーテンも閉め切られて柳は見えない。昼も夜も分からない日々がどのくらい経過したのか、無限の時を過ごしたかのように私たちは感じた。

 誰もいない私たちだけの世界を壊したのは、けたたましいドアベルの音だった。
 最初は無視していたのだが、何度も何度も鳴らされることが煩わしくて、マサシさんは乱れたスウェット姿のまま玄関ドアを開ける。
 そこにいたのはオフィススタイルのタナカさんとスーツのヒロムさんだった。ドアを開けてやっと気づいたが、今は日が傾き始めた夕刻だった。
「おいキクチ、お前大丈夫なのか? 何日も無断欠勤したと思ったらその有様で。何かあったのか?」
「何もないよ」
 マサシさんは伸びた前髪の奥から二人を異国の民を見るような目で見た。
「何もないわけないじゃない。そんな身なりで。ご飯も食べてないんじゃないの?」
 煩い。とマサシさんは口の中で呟く。
「なあ、何があったんだ。部署のみんなも心配してたぞ?」
「うるさい! お前らに俺の何が分かるっていうんだ! 俺はミカと居られたらそれでいいんだ。ミカさえいればそれでいいんだよ!」
 マサシさんは激高した。ぬかるんだ唾を撒き散らして、喚いて、そしてひざを折って泣いた。玄関のたたきの冷たさが、マサシさんから熱を奪う。ミカ、ミカ、と私の名前を何度も繰り返して。
「ミカって誰?」
 マサシさんの目の高さにかがんだタナカさんが背中をさする。
「この部屋に誰かいるの?」
「ミカがいる。俺の、特別で、一番で、尊い人だ」
 涙と混ざった鼻水が落ちて、冷たいコンクリートに染みを作る。私はマサシさんを抱きしめたくてたまらなかった。
「ちょっと上がらせてもらうぞ」
 ヒロムさんがマサシさんを押しのけ私たちだけの部屋に侵入する。マサシさんはヒロムさんの脚に縋り付き止めようとするが、数日間不規則にカップラーメンを食べただけのマサシさんに男の歩みを止めるだけの腕力は無かった。
「おい、女なんてどこにもいないぞ」
「いる。いるよ」
 マサシさんの声は心が拒絶するように震えていた。
「どこに? キッチンにクローゼットに本棚とベッド。あとはそこに椅子があるだけの部屋じゃないか」
「いるんだよ! そこの椅子に座ってる」
 マサシさんが私の幻影を求めて駆け寄る。足がもつれて椅子の前に跪く。
「青いワンピースが似合って、長い髪が美しくて、澄んだ瞳で微笑んでくれる俺の女神なんだ。ミカは俺を肯定してくれる。俺は、俺はミカを愛している」
 椅子の上には私が足を揃えて座っている。ノースリーブのワンピースからは華奢な腕が伸びて、マサシさんのボロボロの頬を撫でる。
「何を言っているんだ、マサシ。そこにはただの木椅子しかないぞ。お前、大丈夫なのか?」
 マサシさんの瞳がひとつ、まばたきをする。
 そこに私はいなくて、小さな木椅子に青いワンピースとピンクゴールドのネックレスがかけられているだけだった。
「ミカ、ミカはどこだ! ミカ!」
 マサシさんの慟哭が小さな部屋中に響く。枕を投げて、床に散乱したゴミを蹴飛ばして、濁った眼から汁を撒き散らす。
「おい、落ちつけって、マサシ」
 ヒロムさんが止めようとしてもマサシさんはどこにそんな力があったのか、振り払って南向きのサッシを開ける。
 そして、ベランダの柵に足をかけ、四階から落ちた。
 今日が燃え尽きる赤の中でマサシさんの身体は柳の根元でありえない形に曲がり、赤いものが土の中に抜け出ていく。
 意識の遠くで、タナカさんの悲鳴が聞こえた。

「ミカ、愛しているよ」
「これからも、ずっと一緒ね」

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 「エッタの椅子」 作:七日

 昔々、あるところにエッタという幼い娘がおりました。
小さな体と人形のように美しい顔立ち、上品な服を着せられて。
可愛らしいエッタは宝石商を営む父親と二人、幸せに暮らしておりました。

 エッタは店の机に並ぶ、キラキラとした宝石を見るのが大好きでした。
硝子細工よりも美しく、絵の具よりも色とりどり。
そんな宝石を父親の横で眺めるのがとても好きでした。

 そんなエッタが六歳の誕生日を迎えたある日のこと。
父親はエッタに木製の椅子をプレゼントしました。
綺麗な木彫りの装飾に彩られた椅子をすぐに気に入りました。
そしてエッタは、宝石のよく見える場所に椅子を置いては、毎日座りました。
硝子ケースに入った宝石たちを、椅子の上でいつも飽きることなく眺めていました。

「赤い宝石は素敵な夕日の色。
 青い宝石はまるで深い海の底。
 緑の宝石は澄んだ川のよう。
 黄色い宝石はお月様の色。

 派手ではないけれど、淡く輝くの」

 エッタはお気に入りの椅子の上で、宝石を眺めながら歌うようにそう繰り返しました。
エッタの言葉を聞いて、父親も常連さんもいつも笑顔でした。

 しかし、そんなある日のこと。
エッタは重い病気にかかりました。
大好きな椅子に座ることもできず、大好きな宝石を見ることもできず。
苦しそうにベッドの上で眠ることしかできなくなってしまったのです。
 父親は大変悲しみました。
伝を回り、腕のいい医者を見つけてはエッタを診てもらいました。
けれど、どの医者も首を横に振るばかり。

「お父さん。
 赤い宝石はエッタの唇と同じ色。
 青い宝石はエッタのボタン。
 緑の宝石はエッタの瞳のよう。
 黄色い宝石はエッタの髪の色。

 忘れないで。
 同じ色でなくても、エッタはそこにいるわ」

 エッタはそう繰り返し、父親に聞かせました。
何度も、何度も、何度も、何度も。

 遂には、エッタは白い美しい肌をさらに白くして、息を引き取りました。

 それからというもの、父親は仕事に手がつかなくなってしまいました。
宝石を見れば涙を流し、エッタの椅子を見れば涙を流し。
エッタの椅子の前には、店の中でも最も美しい宝石を並べました。
しかし、椅子に座るエッタはもういません。

 悲しみにくれる父親を見かねて、店の常連さんはある日人形師を連れてきました。
人形師は手に持っていたケースを開いて父親に中を見せました。
するとそこにはエッタと瓜二つの顔をした小さな人形が、目を閉じて眠るように入っていました。
「エッタだ、エッタが帰ってきた」
父親はそれはそれは喜びました。
そしてエッタと同じ顔の人形をエッタの椅子に座らせてやりました。

 それからというもの、父親はとても元気になりました。
以前のように真面目に仕事に向かい、エッタの人形を甲斐甲斐しく世話しました。

 朝食には一緒に着き、自分と同じ食事を人形の前に並べました。
 昼食にはエッタの椅子を持ってきて、同じテーブルを囲んで談笑しました。
 十五時になるとエッタの椅子の前に、宝石と一緒にティーセットを並べました。
 夜になると、エッタのベッドの上で眠らせて、子守唄を歌ってやりました。

 そんなある日のこと。
エッタの椅子をいつもの硝子ケースの前に置くと、突然椅子が喋りだしました。

「赤い宝石はエッタの血の色。
 青い宝石はエッタの肌。
 緑の宝石はエッタの咳のよう。
 黄色い宝石はエッタの声の色。

 弱々しく輝いて、エッタはそこにいた」

 父親は大変驚きました。
けれど父親は椅子にこう言いました。
「何を言っているんだい。エッタはここにいるよ」
そう言ってエッタの人形の頭を撫でました。

 しかし、次の日もエッタの椅子を同じ場所に置くと椅子は言いました。

「赤い宝石はエッタの目の色。
 青い宝石はエッタの涙。
 緑の宝石はエッタの嗚咽のよう。
 黄色い宝石はエッタの指先の色。

 弱々しく瞬いて、エッタはそこにいた」

 それを聞いた常連さんはとても驚きました。
けれど常連さんはこう椅子に答えました。
「何を言っているの。エッタちゃんはここにいるわ」
そう言って、エッタの人形の髪を掬いました。

 それでもエッタの椅子は、次の次の日も繰り返して言いました。

「赤い宝石はエッタの舌の色。
 青い宝石はエッタの耳。
 緑の宝石はエッタの胸のよう。
 黄色い宝石はエッタの息の色。

 弱々しくきらめいて、エッタはそこにいた」

 その次の日も、そのまた次の日も。
椅子は何かを訴えるように、まるで責めるように。
宝石の前に置かれては、何度も、何度も、何度も、何度も、何度でも。
ひたすらに繰り返すのでした。

 そんなある日のこと、父親は常連さんに言いました。
「どうか、上質な紙とインクを用意してはくれませんか。
いくらでもお金は払います」
常連さんは「えぇ、わかったわ」と言って、それは上質な紙とインクを用意しました。

 次の日、また父親は常連さんに言いました。
「どうかペンを用意してはくれませんか。
昨日もらったインクで書き留めたいことがあるんです」
常連さんは「もちろん構わないわ」と言って、それは素敵なペンを用意しました。

 さらに次の日、父親はまた常連さんにお願いしました。
「どうか丈夫な縄を用意してはくれませんか。
いらないものを縛りたいんです」
常連さんは遂に口煩い椅子を捨てるものだと思いました。
そして「えぇ、もちろんよ」と言って、丈夫な縄を用意しました。

 しかし、次の日も、そのまた次の日も。
父親は店を閉めたまま姿を見せませんでした。
心配になった常連さんは、警察を数人連れてきて店を開けさせました。

 そこには首を吊ってぶら下がる父親と、足元に転がったエッタの椅子がありました。

 エッタがいつも眺めていた宝石の前には、一通の手紙と小さな人形が座っていました。
「私は、君を置いてはいけなかった」
そう綴られた手紙を読んでいると、エッタの椅子はいつものように喋りだしました。

「赤い宝石はエッタの唇と同じ色。
 青い宝石はエッタのボタン。
 緑の宝石はエッタの瞳のよう。
 黄色い宝石はエッタの髪の色。

 同じ色でなくても、エッタはずっとそこにいる。
 ずっと、ずっと、ずっと。

 エッタはそこにいるの」

悲しそうにそう言って、エッタの椅子は二度と喋ることはありませんでした。

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「ανάμνησις」 作:おもちりん

ぽおんと鐘を打って、大時計が低く呻る。いつものことだ。僅かな染みまで覚えてしまった本を撫でる。クッションに埋もれて、温まった椅子がか細い音を立てた。

 草の香りがするページを捲って、青年は本に熱中するふりをした。すっかり見慣れた文字を追いかけて、物語に溢れる色たちを、頭の中で躍らせる。少しばかり褪せてセピア色をしたその欠片は、風に攫われるように歌を歌う。元々青年はそれをあまり好まなかった。
「なんだ、またそんなもの読んでる」
 鼻にかけたような声が、照れるようにため息を吐いた。
 青年は本が好きだ。その中では、小さなおとぎ話なんて好きではなかったけれど、それでも彼はよくこの本を読んでいた。草花の主が、太古よりその司るの朽ちゆくまでを見届けるお話。あまりに救いがなくて、優しくて、美しいお話。これは、彼が勧めてくれたものだ。何年か前の誕生日、丁寧な包装をして、自信なさげに手渡してくれた本。そういうこともあって、青年は未だにそれを手放せないでいる。青年が大事に持っていることに気付いた彼が頬を赤らめるのも、心地よかったから。
「まったく、暑いったらない」
 やや乱暴に扇がれたシャツが、ぱたぱたとはためいた。
 この頃は段々と気温が下がっているけれど、それでもまだ夏をひきずっていた。今日はすっきりと晴れていて、日が落ちてからは幾分涼しくなったと青年は思っていた。ただ傍らで焚かれた灯りのせいもあってか、多少汗が滲むのは事実だった。少し換気でもしようと、青年は本を置いて立ち上がった。勢いで傾いた椅子がきいきいと揺れる。潰れてうすっぺらくなったクッションが、耐えきれずにずり落ちた。青年はそれを放置して、すぐ向こうの壁際に手を伸ばした。薄青く光るドレープを引っ張って、現れた格子窓を押し開く。ひんやりとした風にあおられて、垂れていたレースがふわりと広がった。
「月が綺麗とは言ったものだけど、わたしは星が好きかな」
 りんと響く高音に、囁きが紛れ込んだ。
 今日の月は、綺麗に半分に割れていた。彼は星が好きだと言ったけれど、青年は月も好きだった。ただみんなが持て囃すような満月よりは、今日みたいな半月が好きだった。真っ二つに欠けたその葉っぱみたいな形が、まるでピエロのように青年を笑わせるからだ。白くてぼんやりと霞を描く模様は、眼下に広がる木々や石並のシルエットによく映えて、やっぱり少し滑稽だ。花の息吹が染みる。青年は涙が出そうだった。慌てて背を向けると、ずんずんと部屋の奥へ突き進んで、チェストに乗っかった置物を引っ掛けた。それは鈍い音を立ててカーペットを転がった。
「あなたときたら、そそっかしいんだから」
 呆然とする後ろで、くるくると笑いが漏れた。
 青年は自分がそそっかしいと言われることが、よくわかっていた。彼も含めた周りの人たちに指摘されているし、うっかりと壊してしまうものも多く、青年自身も困っていた。だから青年は、そもそもあまりごちゃごちゃと物を持たなかった。今まさに足元で横たわっているそれは、本と同じように、彼が寄こしたものだった。それだけではない。ウッドチェアやびろうど、それに手鏡からコルクボードまで、この部屋に居座っている実に様々な家具たちの大半は、彼が何かと理由をつけて持ち込み、そのまま置き忘れられていた。青年は転がったままの彫像を置きなおした。壊れてはいない。つるつるとした石で作られた繊細な天使はどこかよそよそしく、けれどすっかりそこを気に入ってしまったらしく、穏やかに寛いでいた。
「テーブルの上も、だいぶ華やかになったよね」
 はじかれたグラスの中で、からりと氷が崩れた。
 そういえば口の中が渇いた気がした。青年はテーブルまで引き返すと、水浸しのカップを取り上げた。一口呷ったところで、随分水っぽいことに気付く。仕方がないと、青年は隣の冷蔵庫からびんを引っ張り出した。びんなんて使っているけれど中身はただのジュースだ。彼はこういったやや古びたなデザインを好むらしい。硝子や木や、くすんだ真鍮なんかの魅力を熱く語っていた。あまり合理的でなく青年には理解できないところもあったけれど、青年は彼の好きにさせていた。彼のが持ち込むものの中には、青年の趣味に合うものもあったからだ。例えばそう、取り出したばかりのびんを覗いた向こうに傾いている、砂時計。緩やかな曲線を描く銀に囲まれている透明の七角錐は、陳腐な言い方をすれば、とても美しかった。
「意外だな、大事にしてくれていたんだ」
 愉悦を滲ませて心音が、跳ねた。
 けれど、埃もひとつかぶっていない硝子の中で、メールブルーの砂はぴくりとも動くことはない。ぽおんと鐘が響く。

 ――伝えられたら良かったのか。耳を傾けただ座すことは、愚かだったろうか。だが、僕の向かいに座るのは、きみでなくてはならない。かちりと穴に嵌まって、また逆転を始める音楽は、あの時僕らが送った何か。椅子の上で幸せを詠った影は、思想の上で永遠を謳おう。
 さあ、僕らのとうと幸え奉れ!

 水を捨て空いたカップにジュースをなみなみ注ぐ。とくとくと心地よい水音に合わせて、甘ったるい香りが鼻を掠める。ひとつ口に含むと、存外にさっぱりと溶けた液体が舌を滑っていった。少しばかり植物らしさのある冷たさは青年の気分をいくらかましにした。カップを手放すと、青年はぐいと腕を天井に伸ばした。開いた窓から吹き込む風と虫の声が涼しくて、青年は満足げに咳払いした。まっさらな水面にさざ波が立った。びんもカップも置きっ放しにして、青年は踵を返した。
「ちゃんと片付けなって、言ってるだろう」
 鼻にかけたような声が、諦めたように咎めた。
 青年は整理整頓が苦手だ。幼い時分からそうであったし、独り身であると尚更、自分の都合のいいように散らかしてしまうものだった。どこに何があるのかわかっているのだから、青年は別段困ることはないけれど、傍目に整っていない様を彼は気に入らなかった。度々小言を貰っては、しかし青年はあまり片付けをすることはない。整い過ぎた部屋は落ち着かないし、そんな青年を見た彼が、放っておいても物を動かしたりしていた。ほとんどが彼のものだったから当然と言えばそうかもしれないと、青年は思っている。それに彼の片付けは上手くて、青年の都合をよく抑えていた。だから青年は彼の作ったこの部屋が好きだ。キャビネットに手を掛けて、体を支える。本当によくできたものだったと、彼は心の底から感嘆した。
「もっとも、わたしも人の事は言えないな」
 大きく広げた腕が、はらりとシャツの裾を翻した。
 この頃はそれでも物が増えてしまったから、少しばかり手狭なのは確かだった。まったくこれだけの家具を持ち込んだことだ、青年は口の端を持ち上げた。エクステンションに乗った木盤上で、ナイトと踊るルークを摘まむ。ざらざらした感触が、妙に暖かく感じられた。本当はこれも何処か邪魔にならないところへ収めた方が良いのだろう。けれどまるでぴったりと嵌まった芸術のように、心臓を鷲掴みにしてしまうこの盤面を動かしてしまうことは、なんだか勿体ない気がしてならなかった。ぱちり。わざわざ音を鳴らして青年は二つの駒を倒した。
「時々、あなたがとても不思議に見えるんだ」
 しんと沈んだ低音を、囁きが切り裂いた。
 実際のところ、青年は頭を使うことは得意ではなかった。だからゲームだって、好きだったわけではない。けれど本を読んでばかりいたからか、勉強が好きなんだろうとか、パズルが得意なんだろうとか、勝手ばかり言われていた。彼はそんなこと、一度だって言ったことはなかった。だから至極対等に過ごしてはいたものの、やっぱりそういった分野で、彼は青年に負けるらしかった。それが悔しいと、しばしば青年にゲームを持ちかけていた。もちろん、彼と遊ぶことは楽しかった。彼はどうだったろうか。青年は唐突に、息を止めてしまいたくなった。
「きっといつだって、あなたには敵わない」
 抑えた手の向こうで、するすると笑いが漏れた。
 青年は、自身が彼に勝るなんて到底思えなかった。たとい青年が、ちょっとだけ良い成績を収めたとしても、大事なところではずっと、彼には及ばない。例えば、そう、チェスボードの隣の繊細なオルゴール。横に出っ張った金属を弄ぶ。そのねじを回せば奏でられるであろう幻想的な音楽は、彼が生み出したものだ。手を払って、ゆらゆらと壁にしなだれかかる。青年の頭上で微笑む額縁の花だって、彼の作品。部屋の内装だってそうだろう。青白い光が意識を攫う。感性に訴えることなど、青年にはできなかった。
「いいじゃないか、あなたはみんなうつくしいと感じることができる」
 ぴちゃんとどこかに、雫が落ちた。
 穏やかに明滅する光の元を目で探る。アクアリウムだ。内側を照らすためのライトと窓から差し込んだ月光が、水の中で万華鏡みたいに広がって、辺りを淡く染めていた。数多の彼に埋もれたこれは、青年のものだった。アクリルチューブこそはやはり彼が持ってきたものだけれど、青年たちには生き物を持つことが難しくて、そのまま放置されていたものだ。それを青年が、想像を頼りに、おとぎ話の世界に作り替えた。生き物のいない、水に沈んだ、けれどたくさんの木々を模した世界。ぽおんと鐘が、響き渡る。青年ははっとして水槽を覗き込んだ。視界いっぱいに飛び込んだメールブルーは、黙って渦を巻く。その中の草花は、たしかに息づいていた。
「だから、ね、あなたはわかっている。いいだろう、もう、わたしたちも」
 どくんと大きく、心音が跳ねた。
 青年はおもむろに、室内へと振り返る。倒れたポーン。微睡む天使。回らないオルゴール。濡れたカップ。褪せた本。なびくカーテン。散らかった部屋。砂時計の砂は、落ちることはない。そこではただ、からっぽの椅子が二つ、立ちつくしているだけだ。
 青年はよろめきながら、己の椅子を目指した。もうそろそろ、行かなきゃ。なんとかたどり着くと、クッションをずり上げて、腰を沈ませる。ああ、もう、そんな時間なのか。目を閉じて手に馴染んだ本を手繰り寄せる。行ってしまうのだね。青年は小さく唇を動かした。

 ぽおんと鐘を打って、大時計が低く呻る。いつものことだ。僅かな染みまで覚えてしまった本を撫でる。クッションに埋もれて、乾いた椅子がひとつ、か細い音を立てた。

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「その椅子に座る者」 作:ぴえ


「……か」
 暗闇の中、声が聞こえた。それは遠くて、上手く聞き取れない。
「おい……か?」
 先程よりも声が近く聞こえた。
 あぁ、そうか、と思う。これは声が遠いのではない。僕の意識が近付いているのだ。
「おい、大丈夫か?」
 次第に意識がはっきりとしてきた。身体が揺らされている。
「ん……」
「気が付いたか?」
「……貴方は? いや、ここは……」
 声をかけていたのは黒髪の男性。三十歳ぐらいの知らない人。そして、周囲を見渡す。僕がいたのは木造の部屋だけど――ここは、何処だ?
「ここは何処ですか? いや、僕は――誰だ?」
※※
「記憶が無いのか?」
 俺は、目を覚ました青年に問う。十四、五歳の若い金髪の青年だった。彼は明らかに混乱している。視線は様々なところを彷徨い、止まらない。
「落ち着け。ゆっくりで良いから、解ることを話せ」
「は、はい」
 青年の呼吸は荒い。状況を理解出来ない、という不安が大きな負担になっている。どうやら、俺から話す方が得策のようだ。
「俺はアベル。魔術師だ」
「魔術師様……ですか?」
「あぁ、ここには気になることがあって来た。そしたら、お前が倒れていた」
「僕に……用ですか?」
「いや、お前じゃあない。俺達の目的は――」
 俺はこの部屋にある一つの『椅子』へと視線を移した。
 古く、重厚な木製の椅子。座る部分と、背もたれには血のように鮮やかな赤のクッション。肘掛や、所々に彫られた文様は、この家の家具にしては違和感を覚えさせる――それほどの高級さと、禍々しい雰囲気を感じさせた。

 俺達がこの家に来たのは『宝具』がある、という噂を聞いたからだ。魔術師の力に強大な影響を及ぼす『宝具』。それは魔術師からすれば、喉から手が出るほどに欲しい貴重な代物だ。
 この世界で魔術師の役割は重要だ。
 人々を恐怖と絶望へ誘う『悪魔』。その悪魔に、魔術を使い、戦うことが出来るのが魔術師だ。だが、その存在は貴重なのだ。
 理由は簡単だ。魔術を使う為に必要な魔力。これは、持っている者と持たない者に分かれる。そして、前者の数は圧倒的に少ない。その為、魔術師は周囲の人々から神のように扱われることもある。
 悪魔から人々を護る為、『宝具』は必要――というのは建て前だ。
 実際は違う。魔術師はその存在が特別だが、その特別の中でも特別になりたいのだ。圧倒的な魔力を持ち、その頂上に君臨したいのだ。
 強欲だと思う。だが、その欲を満たす『宝具』がここにはある。
『誓約の椅子』
 その椅子に座ると、最強の魔力が与えられる――有名な『宝具』だ。

「あの……」
 椅子を見据える俺に、青年が話しかけてきた。
「どうした?」
「あの……先程、俺達、と言いましたが、魔術師様にはお仲間が?」
「あぁ。おい、カイン!!」
 俺は大きな声で、仲間を呼んだ。
「何人で来たのですか?」
「俺を含めて二人だ」
 そんな会話を交わしていると、ぱたぱた、と足音が近づいて来る。
「何だよ、アベル?」
 部屋の出入口から茶髪の男――カインが顔を出す。俺と同年代で強力な魔力を持つ魔術師だ。
※※※
「その青年、目を覚ましたのか?」
 私は状況を理解し、アベルに尋ねた。
「あぁ。そっちはどうだ?」
「この部屋の他には居間と寝室が一つ。それらしい『椅子』は無かった。だから、おそらく、それだろうな」
 私が視線で、この部屋にある『椅子』を指すと、アベルも静かに頷く。
 私もこの家に来た時に、この部屋の椅子と気を失った青年を見ていた。家は小さいが、他にも部屋はあるようだったし、青年が気を失っていた、ということは誰かいるかもしれない。だから、役割を分担することにした。
 アベルは青年の保護。私は家の探索だ。結果としては、この家には他に誰もいないし、『宝具』と思われる椅子も無かった。
「彼から何か聞けたのか?」
「いや、記憶を失っているようだ」
「記憶を?」
「もしかしたら、この家の者じゃあないのかもしれないな」
「いや、それはない」
 記憶を失っていたことには驚いたが、アベルの推察は間違いだ。私は探索時に見つけた写真を指で弾いて、彼に飛ばした。
「これは――この青年だな」
「この家のアルバムにあった。他にも日記があって読ませてもらったが、どうやら木こりで平凡に過ごしていたようだ」
 それを知った上で部屋を見渡すと、斧が一本だけ壁に掛かっていた。おそらく、彼の仕事道具だろう。
「あと、魔術でこの辺りを調べたが、悪魔や人の気配はない」
「そうか。じゃあ、俺はこっちを調べるぞ」
 そう言って、アベルは人差し指で青年の額に触れる。
「な、何を……」
「黙ってろ」
 アベルが今から行うのは記憶を読み取る魔法だ。難解な魔術で、使える魔術師は少ない。
「駄目だ」
「どうした?」
「この青年――記憶を消されている。明らかに、誰かに、故意的にな。その痕跡だけは感じられた」
※※
「この辺りに悪魔や人……魔術師の気配はなかったんだな?」
「あぁ……」
 愚問だとは解っていた。カインが魔術を使って取り逃がすことはないだろう。ならば、何故この青年は記憶を失っているのか。
「椅子を奪おうとして、青年に見つかり、動転。青年を襲い、記憶を消して逃げた……か?」
「そうだな。その椅子が例の宝具だったら、魔術師が訪れている可能性はある」
 カインが同意する。しかし、疑問が一つ残る。
 青年を襲い、記憶を消したのが魔術師であっても、悪魔であっても、何故、『宝具』を奪わなかったのか。
「本物なのか、偽物なのか、確かめる必要があるな。強大な力を得た魔術師の話なんて聞かないから、後者の確率が高いが……」
「前者だったら他の誰かが奪いに来る前に、その力を得たい、だろ?」
 俺の思考を先回りしてカインが話す。思わず笑ってしまった。
「ここに来る前に約束した通り、アベル……お前が先だ。私はその後で良い。『宝具』の力は山分けだ」
「あぁ。じゃあ、先に失礼」
『宝具』が力を与えるのは一人だけではない。使用者が力を得るのだ。その前例はいくらでもある。ならば、この椅子は座った者に力を与える。そして、その力を得るのは俺とカインだけで良い。その後は壊して、他の者が力を得ないようにするつもりだ。
「いくぞ」
 一度大きく深呼吸し、俺はその椅子に――座った。
※※※
「がっ!!」
「え……」
 それは一瞬だった。椅子に座ったアベルが白骨化したのだ。
「あ……アベル……」
 私は近付くが、次の瞬間、骨は砕け床へと落ちていった。
「ひぃぃ!!」
 青年の叫び声が響く。当然だ。あまりにも突然で、残酷な出来事なのだから。しかし、私の思考はこんな時でも冷静で、一つの回答を導いた。
 青年の記憶を奪った者が誰かは解らないが、その者もこの椅子に座ったのだ。だが、結果はアベルと同じ――死んでしまったのだろう。
「そういうことか」
 そう呟くと、私は椅子の上に残っていたアベルの服を払いのけ、椅子に座る準備をする。
彼が死んだことに、悲しみを感じていなかった。それよりも、強大な力を独り占め出来る好機を喜んでいる。
「す、座るのですか?」
 青年の怯える声が聞こえる。
「当然だ。強大な力をリスク無しで得られるとは思っていない」
 そう答えて、私は椅子に――座った。
「ぐっ!!」
『耐えたか』
 その声は椅子から聞こえた。と、同時に理解したのはその椅子が私の魔力を吸い取ろうとしていること。
『今日は魔術師が二人とは景気が良いねぇ。しかし、結界を張るとは警戒してたんだな』
「……誰だ」
『俺はサタンの椅子ってもんだ』
 その名前は聞いたことがある。魔術師の魔力を死ぬまで喰らうことを目的とする有名な悪魔。しかし、何故だ、その気配は先程までなかったのに。
『俺は誰かが座って初めて存在するからな。さっきまでは単なる椅子だったんだよ』
 私の思考を読むように、サタンの椅子は答える。いや、事実、読んでいるのだろう。
「随分と余裕のようだが……誤算があったようだな。青年!!」
 私は青年を呼び、部屋にある斧へと腕を伸ばし、指差した。
「は、はい」
「この椅子は悪魔だ。だが、私が耐えている間は何も出来ない。だから、その斧で椅子を壊せ!!」
 私の指示に従い、青年は斧を手に取る。勝機はこちらにあった。
『馬鹿だねぇ』
 その声が聞こえると同時だ。ドン、と音が響くと私は目を疑った。
 椅子が砕かれたのではない。青年が私の腕を叩き切ったのだから。

「ぎゃあああ!!」
「五月蝿いな。記憶の戻りたては頭が痛いんだから、静かにしてよ」
 魔術師の叫び声に苛立ちを覚えながら、僕は斧を肩に担いだ。
「まさか、悪魔に操られて――」
 魔術師が的外れな推論を語ろうとする。これまでの魔術師達のように。
『違う、違う。そいつは俺の契約者だ』
「な……なんだと……」
 魔術師の顔は恐怖で引きつっていた。笑える。
「本当だよ。僕は魔術師を殺す為に悪魔と契約した。それで、この手法を考えた」

 僕が考えた魔術師の殺し方は簡単だ。ポイントはどうやって椅子に座らせるか。
 魔術師は強欲だ。だから、『宝具』の噂を流せば、食い付き、ここへ来る。
 次に、重要なのは僕の振る舞い方だ。演技をしても騙せるとは限らない。ならば、最初から何も知らなければ良い。だから、悪魔に記憶を消してもらい、魔術師が座ると同時に戻すように頼んでいる。今回も案の定、僕の記憶を探ったようだが消されているので問題は無かった。
 複数で来た時は、残りの一人になるまで記憶を戻さないようにしている。大切なのは、僕が敵だと悟られないこと。
 多少の疑問はあっても、魔術師達は椅子に座る。理由は簡単――強欲だから。目の前に強大な力をくれる椅子があるなら、疑念を拭わず座る。それは自身の力を過信していることもあるのだろう。

「な、何故……」
 魔術師が恐怖と絶望に満ちた表情で、僕に問う。本当に笑える。
「僕の家族はね、魔術師に殺されたんだ」
 僕は淡々と語る。
「金持ちじゃあないけど、家族は幸せだった。そして、両親が地道に働き、新しい家を持った時――住んでいた街が悪魔に襲われた」
 その街を救ったのは魔術師だ。だが、その戦いの中で家は破壊され、中にいた両親は死亡。最初は仕方ない、と思っていた。多くの人が救われたのだから良いではないか、と。
「だけど、その後、楽しそうな魔術師達の会話を偶然聞いた。僕の家を壊す必要はなかったんだって。でも、わざと激しく暴れて壊した。理由は何だと思う?」
「……私は関係ない」
「空を飛んで移動する時、新しい家が太陽の光を反射して、眩しくて、邪魔だったんだって――ふざけてるよね?」
「私は関係ない!! 私は関係ない!!」
「僕は思ったよ。強欲で、自分を神様と勘違いしている魔術師なんて――死んだらいいって」
「私は関係ない!! 私は――」
「お前、五月蝿いよ」
 僕は首に狙いを定めて、持っていた斧を振り抜いた。
※※※※
『順調だな、相棒』
 俺に座る――契約を交わした青年に語りかける。魔術師の死体を放置して悠然と座る姿は中々に様になっていた。
 俺達が交わした契約は単純だ。
 青年は魔術師を殺す。その殺した魔術師は俺が喰らう。
「うん。だけど、まだ世界には魔術師が残っている。そいつらも、いずれ来るだろうね。まぁ、殺すけど」
 青年の家族を殺した魔術師は既に死んでいる。今回と同様の手法で殺した。復讐ならば完了している。だけど、青年は止まらない。
「魔術師なんていなくなった方が良い。強欲な魔術師が支配する世界なんて偽物の平和で、実際は地獄だ。救った対価以上に人々から金や物、名誉を求め、神様気分だ」
『魔術師も所詮、人。人の欲は尽きない』
「僕からしたら同等の対価しか求めない悪魔の方が真っ当だ」
 そう言って、青年は疲れた表情で息を吐く。
「僕は少し眠るよ」
『あぁ、解った』
 魔術師を殺すために行われる記憶の削除と復帰。身体への負担は大きい。通常の人間なら死んでいても不思議ではない。それでも青年が耐えるのは、魔術師を殺したい、という単純な殺意と憎悪からだ。
『いつまで耐えるかね?』
「魔術師を全員殺すまで」
『寝ろよ』
「座っていると、お前の声が五月蝿いんだよ」
 そう悪態を吐き、青年は今度こそ眠る。

 青年が望む――全ての魔術師の殺害。
 これは言い換えれば、世界を制することと変わらない。
 青年――お前は誰よりも強欲だ。だが、俺に座る者はそれぐらいが丁度良い。

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「またきてしかく」 作:星 宗介

 ぼくの背後で、目すら潰れる鋭い一閃が駆けぬけた。
 さよなら、と呟くほか無かった。だってぼくはこの部屋から出られない。きみは何処かへ行ってしまえど。

     ○

 密室と椅子。そこに座るぼくと、画面に映るきみ。世界はそれで完結している。
 ぼくの冗談を笑ってくれる彼女につられて頬が綻ぶ。
 電話の声は本人のものでなく、似た音を組みあわせて聞かせているのだと誰かに教えてもらったことがある。であれば、自分はもう二度と彼女の声をちゃんと聞けないのだろう。
 窓の外、青い惑星を見つめ目を眇めた。

 テイの乗る軍用ロケットはもう、果てなく藍色が覆う星の海で漂うばかりであった。母星は争いに関して非力で、以前から宇宙戦争で常に劣勢を強いられていた。そうしてとうとう、保てなくなってしまった。
「なんかさ、こうして話す時間ってこんなに切なかったっけ」
「わたしは結構思っていたよ?」
「ぼ、ぼくもだよ」
「また適当言って」
 そんなきみの前で、見せつけるようにサイダーを飲んでしまうぞ! 彼女は栓を開けて、炭酸が逃げだす音を鳴らす。いつ聞いてもその音は、幼少期にお小遣いを出しあって買ったあの夏のサイダーを感じさせてくれる。

 此度の戦争は、生命が棲まう星を減らす、なんて恐ろしい主張を掲げる者たちが発端だった。
 まだ二人が産まれるずっと、ずっと前。地球が、生命の存在する唯ひとつの天体だと思われていた頃には想像もできない規模で、生物は繁殖を続けている。それをよく思わないとある惑星で、とある思想が生まれた。
――生命の選別。それを目的とする、過激な人々。
 宇宙規模の隣人はやがて選民思想を抱き、初めこそそれで終わっていたけれども、今では見る影なく文句をつけては自分と違う存在を迫害し、灯を消すのに躍起になった身勝手な支配集団と成り果てていた。
 そしてその苛烈な思想というナイフの先端は隣星、テイが住むL二九へと向けられた。
 敗戦した彼の星は、その思想によって失われる。人間の描く選別という驕りに抗えずに。

「ずるいよ、きみばかりキンセイサイダーを飲んで! ぼくにも分けてよ」
「もう、仕方ないなあ」
 テイの宇宙でもっとも愛しい恋人、レアは笑う。頭上で生まれもった触角が揺れる。
 彼の星……L二九の人間には、必ず二本の触角が生えている。細くしなやかな棒の先にピンポン玉がついているような。遠くからだと、大きなエノキにも見える。
 レアは、先ほど封を切ったペットボトル――テイの言うキンセイサイダーだ――を傾けて、彼女の座る椅子近くに設置された、漏斗型の機械へと注ぎこむ。すると今度はテイの隣にあるウォーターサーバーから、置きっぱなしのマグカップへ液体が注がれた。
 液体に特化した物質転送装置、通称テレポーターだ。手を伸ばせば届くほどの距離にあるそれは、船長のずぼらさを視覚化したみたい。
「これが無かったらぼく、干からびて死んでたな」
「あとは食べものが送れたらいいのにね」
 彼女の声色は真剣だ。テイは一週間ほど、食事ができていない。そもそも、もう彼のいる部屋には食べものはおろか、何一つ残っていないのだ。船の燃料すらも。寝転がる船員の息なき昼寝も見飽きた。
 しかもそんな事態のくせして固形物は転送できない。レアからテイへ送れるものは声と気持ちと水くらいなものだった。
 転送には物質をいったん、分子ほどまで分解する過程がある。液体はなんとかなれど、固形物はいまだそこからの復元ができない。袋入りのパンを転送させようとすればビニールとパンが混ざりあい、食べられようもない物体が届く。袋を外して送っても、形が歪すぎるパンのようなものがまれに届く、くらいの成功率だ。もとがどうあれ、味は大概まずい。
 宇宙旅行なんて当たり前。個人用の空を飛ぶ乗り物は世に溢れ、銀河を旅する民もいる……これだけ技術が進歩しても、テレポーターというものはさほど現実味を帯びない。

――今この瞬間に使えるのなら、ぼくは彼女の隣でぼくを終えることができるのに。流石にミキサーにかけられる思いをしてまで、転送されようとは思えない……。
「不確かな再会に賭けるよりも、遠いところで最期の最後まで言葉を交わすことをぼくは選ぶ。臆病者だと揶揄する人がいてもそれは曲げないぞ。だって死ぬのは怖いもん」
 それを二日前にほろりと零してしまったのだが、彼女は馬鹿にもしなかった。わたしとの時間を一秒単位で大事にしてくれるのね、なんて嬉しそうな返しにはもうミキサーでいいやと考えるくらいに自分を情けなく感じた。いや、しないけれど。言葉のあやというものです。
 でもそんなことを言われてしまえばなおさら、会いたい気持ちは募る。
 ところで、軍の通信設備を私的利用ばかりしている彼女が非常に気がかりだった。敗戦してからずっと、ぼくとテレビ通話をしているのだから。
「いくらきみでも怒られない?」と尋ねたところ「もう誰も、なにも咎めないよ」と笑われた。どういうことかと質問を重ねる。相当、地上は混乱状態らしい。おそらくL二九の人間でもっとも落ち着いているのは彼女なのだろう。
「皆すきずきに遊びまわっているよ。だってわたし達、最期の日だもの」
 だからわたしも、ずうっと気になっていた設備を使い放題なの。ずいぶん忙しそうなご様子で、軍部通信室のスーパーコンピューターを触りつづけている。その姿を延々と眺め喋りつづけているぼくは、船長席の上質な作りの椅子に座ってご機嫌だ。似たもの同士だ。あとどれだけ座っていても腰が疲れない椅子って本当にあるんだなあ。レアと同棲していた部屋で愛用していた椅子を思い返す。あれはお尻が痛くなった。
「地上も大変だね。こっちもこっちで一人ぽっちになってしまったけれど」
「基地にもわたしくらいしか残っていないんじゃないかな。嘘の災害警報を流して追いだしたし」
「ええ……」
「暴動とか奇行とか、目も当てられなかったの。同じ空間にいたくなかった」
 情報操作や通信妨害なんでもござれと、ぼくの恋人はたいへん素敵な星一番のハッカーだ。第一級警報を鳴らすなど造作もないのだろう。船でもヒラなぼくには見合わない最強の恋人です。
 しかし、落ち着いた彼女の口ぶりとは真逆に、左手が絶え間なくガタガタとキーボードを叩き続けているのはとてつもなく気になる。ずっとだ。通話しているあいだ止むことのないそれは、おそらくぼくが見ていない時でもガタガタ言わせているのだろう。スパコンにはしゃぐとか云う程度でもない。何時でもその音はぼくら二人の特別な時間に大きなソファベッドを置いて居座っている。なにをしているのか訊けば決まって「最後の最後の大仕事」と彼女の一番の武器、笑顔を咲かせて見せられた。
 おもえば、幼い頃からこの娘は頻繁に“大仕事”をしていた。ツキメダカの飼育日記の時もあったし、タイヨウガエルの解剖をしていた時も“大仕事”だった。昔から変わらない、変わり者だ。
 ぼくらのこの過去の記憶は、思い出は星ごと消えてしまうなら、何処へゆくのだろう。
 センチメンタルでアンニュイな感情が心の殻をくすぐってくる。……詩的表現をしてみたかっただけ。というか、柄にもなくぼくの中身が揺らいでいる。だからこんな不思議なことを考えだす。気持ちとかそれだけじゃない。思考も何もかもが、ぐらぐらと。不安定な場所に置かれた皿にでもなった気分だ。
「失くなってしまうんだろうか、全部」
 そんな弱気な言葉が口を衝いて出た。心弱いのは生まれつきだ。レアは相も変わらず、左手で忙しなく奏でながら言いきる。休暇なく働く薬指で、いつかプレゼントした指輪が光を反射させていた。
「失くならないよ、何も。わたし達がこうしてキンセイサイダーを分けあったことも、幼い頃にカセイキャンディをプレゼントしあったことも、指輪をくれた旅立ちの日も」
 一室にひきこもって、映像越しに椅子に座って向かいあうこの一瞬さえも。
 全部がこの宇宙にまるごと、刻まれているんだ。むしろ宇宙なんてわたし達が一緒に住んでいたあの部屋みたいなものだよ。つまり、すべてがわたし達の部屋なのだ。――ぼくと違い、知ったように大きな口をきく彼女のそんなところが昔から好きだった。今でも大好きだし、きっとこれからがあったのなら、ずっと……いやむしろ。
「ぼくはこの世界すべて亡くなっても、きみが好きだよ」
 改まってなあに? 少し恥ずかしそうな彼女がやっぱり愛おしかった。時計はもうじき十五時を指す。そろそろだ。
「大仕事、おわったよ」
 このタイミングでなにが終わるんだ? そろそろ教えてくれるだろうか。聞かないからって気にならないわけじゃない。教えてもらえないだけだし。気になる態度を隠しもせずにいると、レアは口元に指をあてて、静かにと囁いた。
――なんだよ、もうすぐ死ぬってのにそんな可愛い仕草をして。
 ちょっと皮肉らしく思いながらも、そのとおり静かにすると、ヴヴヴと微かなバイヴレーションの音を耳が拾った。この部屋の壁際に寝そべる副船長の胸元からだった。
 それは別のロケットからの通信を知らせるものだった。驚いて、ランドセルによくついている防犯ブザーほどの大きさの装置を取り出し、通信許可のボタンを押す。
「……者はいるか。繰り返す、生存者は……応答願う」
 真っ白な部屋、あと椅子。それで完結していたぼくの世界で久しぶりに、彼女以外の声を聞いた。驚きも過ぎて腰が抜けた。
「こっ……ちら、L二九所属、後方支援軍用機“カフ”搭乗員テイ。生存はぼくだけだ! 通信可能域にいるのは誰なの」
 声が上擦る。まさか生き残っている船がこれ以外にいるなんて。広い宇宙で独りじゃない。涙すら出かける。彼女がずっと話してくれていたのに。ぼくという情けない奴は、それでも誰かと共に終えたかったのだ。
 しかし、返ってきた通信はぼくの期待にちっとも応えてくれなかった。
「こちらA一三所属、惑星警察。うちの宙域に漂流船が迷いこんでいると匿名の通報があったのだ。見るに貴殿しかいまい」
 聞いた所属は母星でもなければ敵でもない別の隣星、永世中立惑星A一三だった。いつの間にそこまで流れついていたのか? 疑問はある一つの仮定を直ぐ導きだしたけれども、信じたくなくて解らないふりをした。だって、元々の進路では他星に寄せられることなど万に一つもない。この船は帰星する最中で燃料が切れ航行不能、地に戻ることも叶わず、ただただ母星を向き続けるだけのはずなのだ。それを曲げられるのは……。
「遭難は宙域侵入罪が適用されない。とはいえテロ対策に面接は多いが、それはまあ命拾いするのだから大目に見てくれ」
 恐ろしくて、ずうっと見つめつづけてきた画面を視界に入れられない。彼女がもし笑っていたら、ぼくはどうすればいいか分からないんだ。
 通信部からできることには幾つかあるのだが、その一つに思い当たった。ロケットの姿勢制御……コンピュータから指令を送ることで、向きや進行を思うままにできるそれ。
 あとは彼女の得意とする……ハッキングだ。まさか隣の惑星警察に通報するなんて、彼女ほど捻くれていればやりかねない。しかも足がつけば確実に怪しまれる、スパイの疑いが一番に掛かるだろうから。こんなの、まさしく“大仕事”だ。一人の為だけにこんな。
 ぼくの平凡な頭が加速して混迷していく。シリアスなムードにそぐわない、ぽおんと気の抜けた通知音が部屋に響く。ああ、ダメだ。僕の口から気の抜けたサイダーみたいな呟きが漏れた。
 その通知音は、十五時の――
「さよならさんかく」
 聞き馴染んだ声が、幼い頃によくした言葉遊びの冒頭をなぞった。そうして、通信を一方的に切られた。
「やめて」
 それは彼女に宛てたものなのに、独り言になった。
「ゆかないで」
 ぼくの背後で、目すら潰れる鋭い一閃が駆けぬけた。崩れるさまは硝子玉を落として割ったようだった。

 惑星警察の声も上手く聞き取れない。白く濁るすべての中、テレポーターの受信を報せる通知ランプが灯っていることだけ気づいた。背中が椅子に溶けてこびりつくみたいな感覚を味わいながらなんとか首だけそちらへ向けると、そこにあるのは歪な銀色の塊。どれだけ形がめちゃくちゃになっていたって判った。
 彼女にあげた指輪だ。この期に及んでたったこれだけ、会いに来た。それでも――さよなら、と呟くほか無かった。だってぼくはこの部屋から出られない。きみは何処かへ行ってしまえど。

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